« 2010年8月 | トップページ | 2010年10月 »

2010年9月

2010年9月17日 (金)

キャリア3年

私は趣味が少なく、何か夢中になれる物を探していました。

3年前の初冬社長が今週社員を連れて舟釣りに行くけど来ないか?と誘われました。

まさか私が釣りなんて、本人はもとより誰も想像しません。舟に乗るのが好きな私は

即返事をしましたが、さて困りました。釣りは全く経験がない。

しかし、経験が有る無しに関わらず、釣りに行くからには同僚に負けたくない。

社長の釣り仲間で、釣果は別にして「キャリア」は人一倍あるIさんに相談をしました。

道具は社長が貸してくれるが、釣り方がわからない。真剣に聞く私に、Iさんは

「素人が簡単に釣れる訳がない」というような見下した目をして、「社長の仕掛けだったら

そのまま竿をたらして、舟の上で酒でも飲んでいればいずれ魚が来るから」と無責任な

事を言います。あー、私はそんないい加減な事を聞きたくて相談したのではない。 

相談する相手を間違った。社長に相談すると基本的なことを解りやすく教えてくれたが、

何しろ未経験の為イメージが湧いてこない。

「今回は初体験だから、坊主でも仕方ないか」と自分を納得させました。

当日5隻に別れ、社長と同じ舟に乗り、ポイントまで行くのに勝負を捨てた私は

モンキーターンのまねをして一人はしゃいでいました。

ポイントに着くと船頭さんが「釣っていいよー」と声を張り上げました。

社長の大切な「名竿」と「針」にエサまでつけて渡され、さあ下ろしてみと言われたので

竿を下ろすと同時に竿がしなり、手にはなんとも言いがたい感触が伝わってきました。

他に仲間の舟4隻も、皆このポイントを選び近くにいます。

私は大きな声で「来たー」と叫び注目を浴びながら、人生始めて経験する感触を

楽しみながらリールを巻きました。

5本針に5匹の鯵がついていました。最初は、魚を針から外すのは船頭さんがして

エサまでつけてくれます。これはまるでワークスの待遇だ。

暫らくして、いよいよ自分でエサをつけ魚を外し始めました。まわりの同僚も、

そこそこ釣っているが鯵とか鰹が多い。私は底まで落とし少し巻き上げると、物凄い

当たりが有り「ウォー」と声をあげたら社長がすぐ来てくれ、竿のしなりを見て「これは鯛だ」

と言い、ドラックの強さを確認し、ゆっくり巻けば上がるからと上げるまで見ていてくれました。

船頭さんがタモですくって一安心。それはそれは形の良い石鯛でした隣の舟の連中は

魚を見て大変悔しがっている。

初心者なのに経験者達より先んじて釣り上げた。 この勝ち誇ったいやらしい満足感。

こんなにいやらしい満足感は、釣り以外では味わえない。これが釣りの醍醐味かと考える。

間もなく、社長が私より大きな石鯛を釣り上げた。束の間の優越感でしたが、未だ同僚

には勝っている。不気味に一人ニヤニヤ笑っている私でした。

そんなこんなで楽しい釣りも終わり夕方は、釣った魚の試食会。自分で釣った魚の

旨い事このうえない。私は、厭味たっぷりに「さあベテラン釣師のみなさん、この石鯛は

本当に美味しいから食べて」と勧めると、苦虫を噛み潰したような顔をした同僚は、

箸をつけながら、妬みと悔しさのあまり、「社長の完全ワークスだから釣れた」とか、

「運だけだ」とか、「プライベートでは絶対釣れない」とか、ボロクソに言われました。

何を言われようとも、石鯛を釣ったのは私なんだからと、すっかり調子に乗り

あの時の手に伝わる竿の感触が忘れられず、社長と同じ竿を苦労して手に入れました。

「さあ釣るぞ」と大いに意気込みましたが、それからの一年は苦痛と屈辱の日々でした。

写真を前に、魚とのやりとりを自慢げに、またこれ見よがしに語る同僚の

能書きをご拝聴し、テーブル一杯に並んだ魚料理を、正座して有り難く頂戴している

私でした。

そんな苦しみを味わったそれからの私は、肩の力を抜いて楽しみとして

太公望を決め込んでいます。


2010年9月14日 (火)

ついに私は血を吐いた

競艇歴20年なんて、まだまだ浅い私の酒飲み歴はすでに40年になります。

私のアルコールデビューは、人より遅く22才でまだ東京に住んでいる頃でした。

始めてビールを飲んだとき、何でこんな苦いビールをおいしそうに飲んでいるのだろうか?

心の中ではコーラの方が美味しいのにと思っていても口には出せません。

何故なら年下の連中と一緒に飲んでいたからです。

当然のように私のコップのビールが全然減りません。

何事にも、目ざとい後輩が本当は先輩お酒飲めないのじゃあないすか?

見下したような目で、私を見てからコップをのぞきこみました。

私は、急用が出来たからと席を立とうとすると、「コップを空にしてからにしてください」

と言うので、厭味なやつだなと心の中でつぶやき、一気に飲み干してから退座しました。

外に出ると、頭の血管が破裂するがごとくズキンズキンと脈を打っています。

家に帰り、すぐ布団にもぐると天井がグルグル回るのを我慢しながら

何でコップ一杯くらいで酔うのだろうか、今頃後輩達は私を肴に失笑しながら飲んでいる

と思うと腹が立って仕方ありません。

それから、私は血のにじむような努力?のすえ数年後には鈴鹿の居酒屋にて行われた

ビール早飲み大会で優勝するほど成長しました。

さて、それから年月が経ち、モリワキに入社し恒例の忘年会がやってきました。

会場は、毎年三重県尾鷲市のホテル(ホテルが閉館するまで)で行なっていました。

当時の若者は、現代の若者とは違い大変個性が強く酒豪も揃っていました。

普段は、一枚岩の集団とか鉄の団結とか恐れられる程、チームワークが自慢の集団

なのに、あのドンチャン騒ぎをしている姿は、とても自慢の集団とは思えない、

それはそれはオドロオドロシイものでした。

次の日は、無人島に渡り潜って魚をとるグループと陸で、魚をさばくグループと分かれて

作業をしなくてはならないのにそんな事は全く関係なく、暴れたくって次の日を迎えるのが

毎年恒例でした。

早飲み大会優勝の実績を持つ私をもってしても、ベロンベロンで次の日の朝あまりの

喉の渇きに耐えかねて目を覚まし、冷蔵庫から飲み物を取り出し一気に飲み再び

床に就きました。

暫らくすると、気持ちが悪くなり後輩をたたき起こしトイレまで連れて行ってもらい、

背中をさすらせると、すぐバックファイヤー現象がおきました。

後輩のO君は、「大変だー原さんが血を吐いた」と大きな声で叫ぶものだから、

トイレは心配してくれているふりをしている人でいっぱいになりました。

アッほんとに血を吐いている、大丈夫?と一応言葉だけは

心配そうにかけてくれました。

顔色は青く、鮮血のため唇を赤くした私はもう駄目だちょっと乱暴に飲みすぎた。

悪いけど、誰か医者に連れて行ってくれ。

周りの連中は、誰が医者に連れて行くか考えている様子で暫らくすると、一斉に

一番後輩の顔を見ていました。

後輩は、露骨に嫌な顔をしているのがはっきりわかりました。私は「病人なのにそんなに

嫌な顔をするな」と心の中で叫びました。周りの雰囲気が段々暗くなって行きかけた時、

私は突然あることを思い出し声にしてはいけないのに声に出してしまいました。

「アッそうだ、喉が渇いたのでトマトジュースを飲んだのを忘れていた」と言い

すぐトイレから飛び出そうとすると、まだ酔いが醒めていない悪い目つきをした連中は

私を再びトイレに押しこみ、なかなか出してもらえなかった。


2010年9月10日 (金)

競艇選手誕生

私は競艇歴(今年からボートレースと言うらしい)20年近くなります。

始めて競艇を見たのは、先輩に半ば拉致状態で連れて行かれたのが最初です。

レースを見ても特別興味を湧くこともなく終わりました。

それから何年か経ち、記憶があいまいですが、若き天才レーサー出現とか

言うような記事を目にしました。職業柄レーサーとかライダーとか言う言葉に

敏感な私は、その記事に目を通すと21才9ヶ月で競艇界の最高峰ダービーに

優勝との記事でした。当時2輪レースに興味を失いかけていた私は、その記事に

とても興味を持ち、早速競艇場に向かいました。場内に入るとボートとエンジンの

カットモデルが展示して有り、私が青春時代に走っていた頃と同じような、昭和の香りが

漂うエンジンを見て感慨深く見入ってしまいました。

さて、競艇選手はどのように走るのか久々にライダー目線で見ました。

ストレートは正座スタイルコーナー、進入時にはドリフトのような形(後ろで舵を切る為)で

進入してきます。初期ハンドルを入れると、同時に立ち上がり(モンキーターン)旋回中は

二輪車と同様外足荷重で、体はハングオンのように内側に入れ、内側の足はフリーにして

おいて微調整する時使っているように見えました。また、コーナー立ち上がりでボートが

暴れるとフロントを意識的に持ち上げ、ウイリー気味で立ち上がっていきます。

後続のボートは引き波を超えていく時、モトクロスのように腕と膝をサスペンションのように

使い、どんなに飛び跳ねても頭は動きません。これは二輪のレースと同じだと感じ興味を

持ち始めました。

みていると、スピーン(振り込むと言うらしい)とか、ハイサイドとか有り、またストレートでも

コーナーでも競っているときは幅寄せしたり、コーナーでは体当たりをしたり

(ルール上は違反ではないみたいです)とても迫力があります。

私はもし2輪ライダーのトップクラスがこの世界に来たら相当活躍するだろうと思い

艇界のトップクラスの選手を調べると、選手になる前はやはり何らかの形で

オートバイに関わりがある人達がいました。

私は段々夢が広がり、全日本クラスのライダーで誰かボートレースの選手に

なってくれないかなと思っていましたが、冒頭で書いた天才レーサー以上に

素晴らしいレーサーが間もなく誕生します。

 元モリワキクラブ員で「4耐優勝」と「GPモノチャンピオン」の乃村選手です。

彼はロードレースの世界に入る前、競艇選手志望だったそうですが、いろいろな条件が

合致せず諦めていたのです。しかし、乃村君が受験する一期前から、募集要項が

変わりオートバイレースで一定の成績を上げた人は、特別枠での受験資格制度が

できたのです。大変な倍率のなか、乃村君は猛勉強の末見事ヤマト競艇学校に

合格しました。一年間軍隊以上に厳しい訓練を受けやっと9月30日卒業です。

そして11月が乃村選手のデビューレースです。

すでに今年の5月に元ライダーの葛原君がデビューしすでに何回か勝ち星を上げている

みたいです。

乃村君のデビューレースの時は、競艇歴20年のキャリアを持つ私は人一倍でかい面をして

モリワキ社員を引き連れ素人相手に訳のわからないうんちくをたれようと

今から楽しみにしております。


2010年9月 6日 (月)

哀痛

サンマリノGPで不幸にも富沢選手が亡くなりました。

富沢選手は、決して手を抜かないガッツ溢れる走りで、心は常にマシンの数十メートル先を

走っているのがテレビ画面からでも見えるような、素晴らしいライダーでした。

日本が誇る素晴らしいライダーを失った事は、言葉に代えがたい気持ちでいっぱいです。

現地で話す機会が多いうちの社員の話によると、富沢君はとても愛想が良くおちゃめで

ライダー仲間とか、テレビ局の人にも大変好かれ、人間的にもできた立派なライダーだった

と言っていました。

月曜の朝、社員全員で黙祷いたしました。富沢選手の事を決して忘れないで

語り継いでいく事が、彼の一番の供養になると思います。

富沢選手のご冥福をお祈りいたします。


2010年9月 5日 (日)

山口辰也選手

9月になっても、35度以上の日が続きいつになったら秋らしくなるのでしょうか?

残暑もさることながら、今週のサンマリノGPは、私にとって猛暑以上に熱くなっております。

皆さんご存知のように、山口選手が走るからです。私は山口選手とイベントに行く機会が

多く、いろいろ話しをしました。

とくに熱く語ってくれたのは「何時になるかわからないけど、二輪ライダーとなったからには

世界で走りたい。いや絶対走る」と力説してくれました。

社長とマネージャーは「辰也を世界に出してあげたい」と常々言っておりました。

当然緑さんは、山口君が世界に出るべく、最前線で各チーム関係に対し、精力的に

動き、働きかけを行っていました。

また、私たち社員全員は、直接何も力になれないけど「山口選手」が、世界の檜舞台で

大きく羽ばたいてもらいたい、と心から願っていました。

モリワキ全スタッフは、山口選手の実力もさることながら、それ以上に人間「山口辰也」

に心からほれ込んでいるのです。

モリワキ全員が願っているから、と言っても現実はなかなかうまくいきません。

しかし、何事にも真剣に取り組んでいる山口選手と、モリワキスタッフの願いを

神様が見捨てるはずがありません。

サンマリノGPでついにチャンスが訪れました。山口選手にチャンスを与えてくれた

神様と社長。マネージャー。緑さん有難う御座います。

特に緑さんはアメリカから帰って、時差ぼけのまますぐサンマリノに向かわなくては

なりません。しかし、チャンスを与えてくれたグレシーニのチームと、山口選手との

交渉の為一睡もせず、朝まで交渉を続けていました。

正式に決まったのは朝の5時です。決まったからといって安堵は出来ません。

飛行機の手配(当日の海外渡航予約は不可能です)をしたり、山口選手に連絡をしたり

大変忙しかったと思います。私が関空まで送る為、迎えに行くとおはようーの挨拶より

先に「山口さんが乗れる事になった」と大声で叫んでいました。

はやく関空に行かなくてはならないのに、山口選手がサンマリノに行く為のチケットの

手配。また空港についた後の段取りをすべてこなし、約30分遅れて関空に向かいました。

さあ、金曜日フリー走行43秒で慣熟走行でした。

土曜日のフリー走行は、どんなに忙しくても社員全員食堂に集まり応援しました。

私は、予選の時レース好きの連中と酒を飲みながら見ていました。

さあ日曜日、私は朝5時頃目を覚まし外に出ました。

空を見て遠いサンマリノまで願いが届くよう見ていると、今まで見たことのないような

とても大きな、そしてきれいなお天道様が上がってきました。

9月5日午前5時38分です。私は山口選手の活躍と安全を、あのきれいなお天道様に

お願いをしました。

山口辰也選手、MD600(モリワキドリーム)を駆って夢と希望に向かって、私たちと共に

走りましょう。


恐怖の「ゆでたまご」

8月29日の日曜日夜中の2時頃から、インディアナポリスGPを見るため体力を温存しようと

夕方から酒を飲んでゴロゴロしていたら、渡米している社長から電話がかかってきました。

現地の状況とかいろいろ話をして電話を切りました。

外国から社長自ら私に電話してくるなんて久しぶりだな。

電話を切ったあと何か落ち着かない私でした。酒をぐいぐい飲みながら何が落ち着かない

のだろうか?腕組みし目をつぶって考えました。

昔何かあったような気がするが?アッそうだ・・・・思い出しました。

30年くらい前のあの忌まわしい出来事が昨日あった事のように蘇ってきました。

社長は昔から、鳥とか花が大好きで、当時もいろんな鳥を飼っていました。

いろんな鳥がいる中に、チャボと鳥骨鶏(うこっけい)がいました。

チャボは卵を抱くのがうまいらしく、孵化専用部隊として飼っていたらしいです。

そして産卵期が終わる頃に社長はクロスビーを従えイギリスのレースへ旅立ちました。

渡英する前チャボに鳥骨鶏の卵を抱かせて旅立ちましたしかしそんな事は全く知らない

私でした。

渡英してしばらく経ってから社長が電話してきました。

当時の電話は海底ケーブル方式だったので雑音がひどくうまく聞き取れません。

最初の会話は皆どうしている元気でやっているか?と言うような話でした。

私は「今度のレースに向けて全員夜遅くまで頑張っています」

と言う近況報告をした後、社長はチャボが抱いてる卵は孵化したら・・・・

(重要な部分だったが聞き取れなかった)しておいてくれ。

皆に夜遅くまでご苦労さん体に気をつけ栄養を取るように、と伝えてくれとの

電話でしたが、後はザーザー雑音でうまく聞き取れませんでした。

私は、チャボの玉子を遅くまで働いている社員に蒸かして食べさせてくれ

と解釈して、チャボ小屋に行き玉子を採ろうとすると

強烈にチャボが攻撃するので、レーシンググローブをはめて

激しい抵抗にあいながら5匹のチャボと戦い、30~40個くらい

玉子を確保しました。

そして、事務のS女子に「社長からの伝言で鳥骨鶏の玉子をゆでて休憩中に

食べさせるように」と伝えました。

3時休憩になりしばらくすると「ウォー}という歓声が聞こえてきました。

「声が出るほど喜んでくれている。チャボと戦ってよかった」と私は安堵感に包まれて

いる間もなく、血相を変えたK君はじめ数名が私のところへ詰め寄るように来て
「これは何だ」と私の目の前に玉子を置きました。

目を凝らして見ると、すべての玉子は孵化寸前のヒヨコが入っていました。

S女子はショックで、30数年たった今でも玉子は食べられないそうです。

そんな人の心配より孵化と蒸かすの勘違いは天と地以上の違いです。

悩みは深刻です。社長は外国でそろそろ雛がとれ始めている頃だな

と帰って来るのを楽しみにしているに違いない。

私はどんな言い訳をしようか?

餌をやるのを忘れて、お腹をすかしたチャボが卵を食べた?

子供だましのような言い訳しか思いつきません。いや、こんな事は子供でも

だませません。でもよくよく考えたら、言い訳も何も社員全員が事実を知っている

ではないか。英国にいる社長に恐る恐る伝えると「エーッ」と絶句していました。

帰国後、社長からは何もお咎めがなかった。

しかし、今でも時々話題になるということは、これがお咎めだったのかと

30年後にやっと気が付きました。


2010年9月 1日 (水)

どんなギックリ腰でも、数年前までは2日くらい安静にしていれば

すぐ飛んだりはねたり出来ましたが、この頃は全く直りが悪く

肉体の衰えを感じとてもさみしく思います。

しかし、肉体は衰えても一向に衰える様子はなく

益々磨きがかかってきているものがあります。衰えとは裏腹に

お口の方が年々成長し続け、肉体の衰える倍以上の勢いで

お口の回転数が上がってきております。困ったものです。

また、考え方も同年代と比べると、少し若く商売柄比較的若い人達との

付き合いが多いので、自然に若い考えになってしまっているのかな?

それとも、残念ながら成長が止まってしまっているのだろうか?

いやいや、「曲りなりにもいろんな経験を基に成長して来た」と、私は

自負していますが実際はどうなんでしょう?

さて、今から一ヶ月前のことですが、クロスビー来日歓迎バーベキュー大会は

当時を知っている人達は、皆30数年前に戻って楽しいひと時を過ごしました。

お開きになればすぐ現実に戻るのが普通ですが、クロスビーはすぐ現実に戻れず

「鈴鹿で初めて行ったスナックに行きたい」と言い出しました。

しかし、なんと言っても34年前に当時45~50くらいだったママが、仮に未だ

続けていたら80歳前後になるのに、「80歳前後のママがいるスナックなんかあるわけがない」と

ママの年齢を例にしたらやっと現実に戻りました。そのくらい本当に皆30数年前に戻っていました。

2次会はマネージャーに送ってもらい、クロスビー夫妻と糟野夫妻他、モリワキの従業員数名で鈴鹿の夜

に向かいました。怪しげなネオンがあちこちにあり、あまりの様変わりにクロスビーはビックリしていました。

さて、英語ができるのはT君1名しか連れて来ていないし、外人は2人いるまた女性もいるし

あまり変なお店にはいけない。考えているふりをしているけど、本当は何も考えていない酔っ払いの私は

「エーイここに入るぞ」と入りました。店は外人の人達が多く働いているお店でした。

店内をキョロキョロすることもなく、オドオドすることもなく、いかにもお金持ちのごとく

堂々とママに「若くて美人で英語が話せる人を3名ばかりここに呼んでもらおう」と言うと20歳くらいの

とても可愛いい(英語が話せる「T君」談)女の子を始め可愛い子が来てくれました。

クロスビーは、さすがに奥さんの前では何も出来ず、カラオケでデュエットするのが精一杯でした。

一方通訳としてきた「T君」は、本業をすっかり忘れ、20歳くらいの女の子とのお話に夢中になっていました。

私とクロスビーは、昔の話は出来るのですが、日常会話はうまく通じません

「T君」は、もう自分の世界に入ってしまっているので、クロスビーとの話は他の女の子が通訳してくれました。

そんな楽しいひと時も、お開きの時間が来ました。

お金持ちのふりをしている私は「鷹揚に勘定してください」と言いました。

しかし、伝票をみて「さあ困りました」財布を見たらお金が足りません。

すると「T君」の代わりに通訳してくれた女の子が、不足分を払ってくれました。

私は、店の人にタクシーを呼ぶようにお願いすると、その女の子は仕事中にも関わらず

サーキットホテルまで送ってくれたのです。

クロスビーは、「私」と「その人」の事を疑っていましたが、天地神明に誓って何も有りません。

「送ってもらっている時、何故ここまでしてくれるの?」と聞くと、「久しぶりに英語が話せたのと

いやなお客が多い中、とてもよい人達ばかりで楽しかった」と言っていました。

毎日いやなニュースばかりのすさんで荒れた世の中でも未だ捨てたものではないですね。


« 2010年8月 | トップページ | 2010年10月 »