社長マジック第2章
ゼッケン14番「ガードナー」のマシンはストレートを通過する時でも、タイヤをスリップさせながら走っている為、微妙にバランスをとりながら走らなければならず、その為わずかにお尻を右側に落として走っているように見えたのだ。
鈴鹿200kmレースの時は、左足首を骨折しているということも有り、普通のタイヤで走ったが(あいにく本番は雨だった)今回体調万全のガードナーには、一番滑りやすいタイヤを履かせていたのだった。社長は、鈴鹿200kmレースの時セッティングの傾向は二人とも似ている事をつかんでいたから、ジョンペイスには本番用タイヤを履かせてセッティングを担当してもらっていたのだった。
しかも、耐久レースに合わせて新作カム「ステージ5」というカムを入れたカワサキZ-1のエンジンは150ps以上というとてつもない馬力を発揮していた。
ガードナーは、鈴鹿200kmレースの時より馬力が上がっているエンジンだという事は、エンジンベンチを覗いた時すでにわかっていた。しかし、それ以外何も知らされていないガードナーは、今までよりエンジン出力が出ている為、滑っているのだと思い込み、出力特性に合った乗り方を勉強していた。
それでもなかなかジョンペイスのタイムを上回る事が出来ないガードナーは、せっかく馬力をあげてもらったのにうまく走れない何とかしなければと焦りながらも、さすが将来の世界チャンピオン「ガードナー」は徐々に片鱗を見せ安定したスライドをさせてタイムを上げられる方法をつかんでいった。
いよいよ予選当日、本番用タイヤを履いた「ガードナー」は3~4周慣らしのつもりで走っていたが、すでにトップ5に入る16秒後半から17秒前半で走っていたが、タイヤは全く滑らないガードナー自身は慣らし感覚のつもりだったが、まさかそんなにタイムが出ているとは思っていなかった。その為、サインボードは全く見ていなかった。すでにポールポジションに近いタイムを出している事を知らないガードナーは全開で走り始めた。
6周目は16秒01で走って、いったさあ運命の7周目に突入すると、やはり公式練習の滑りやすいタイヤで走っている時と同じ滑り方をしながら西コースに消えて行ったらしい(私はピットロードにいた為見ていなかった)。
ピット上で東コースの走りを見ながら区間タイムを計っていた社長は、「西コースで大きな失敗が無ければ、間違いなく自分の考えていたタイムで戻ってくるはず」と確信していた。最終コーナーの一点を見つめていると、青のカウリングに包まれたゼッケン14番の姿が現れた瞬間、ホッと胸をなでおろした社長だったが慌てたのは私だった。
3秒~4秒くらい前をロジャーマーシャル選手が走っていたから、おおいに慌てた私だった。だって同じカラーでレーシングスーツも全く同じ。ただ違いは14番と15番のゼッケンだけで、おまけに当時のコースはシケインが無く、最終コーナーは5速全開で来るからたまらない。
あの時、丁度タイム的にゼッケン15番が見えて来るはずだった。
ゼッケン15番がストレートを通過すると、最終コーナーにゼッケン14番の姿が見えるというパターンが何周も続いていたから、2分9秒でゼッケン14番が最終コーナーに現れた時は、ロジャーマーシャルのマシンなのかガードナーのマシンなのか、目の前に来るまで分からず焦って時計を押したから、はたして私の計測が正しいのか分からずSメカニックの時計と照らし合わせると、コンマ0.1秒くらいの違いしかなかったので、ピットの上にいる社長に確認した。
ピットの上にいる社長は黙ってうなずくとSメカニックは大変喜び万歳をしました。
すると、社長は「落ちつけとにかく冷静になれ。それとガードナーをピットに入れろ」と言葉でもパントタイムでもなく目で話しました。そんな重要な事を目で話す社長も社長だが、それを完全に読み取る我々も凄かったね。
最も、通用しない人にはそんな事はしないと思うが。
すっかりだまされていたガードナーは、だまされていた事には触れず満足げに「ヘアピンコーナーで失敗しなければもっと行けたよ」と、あっさりと言っていました。
ガードナーに教えたマシンコントロールを学ぶ重要性を重視していた社長は、ライダー育成の為トレーニングマシン開発の必要性を強く感じ取っていた。
社長の夢が実現したのはそれから11年後であった。1992年モリワキからMH80というトレーニングマシンが発売された。
社長は常々「世界のレース界の為誰かがやらなければいけないんだ。赤字でも続けて行かなければならない仕事なんだ」と言い続け、日本国内はもとより世界中に輸出されて行った。
現在もMH80に育てられたライダー、はモトGPチャンピオンのケーシーストーナーを筆頭に今も尚、世界のトップクラスで走り続けているライダーは数多くいる。
