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2011年11月

2011年11月29日 (火)

黄金時代の到来

鈴鹿サーキットの“絶対コースレコード“を打ちたて、一躍有名になったワインガードナーは、実力と実績が認められ、ホンダUKファクトリーライダーとして、世界の檜舞台に挑戦する足がかりを掴むべく、モリワキレーシングを卒業して行った。

グレームクロスビーは2年で卒業し、スズキワークスライダーとして世界GP500で活躍しており、次のライダーワインガードナーは1年で卒業して行った。

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社長はクロスビーを皮切りに、世界各国から情報を集め、非凡な才能を持ちながら世界に出て行くチャンスに恵まれなかったライダーを発掘し、モリワキ学校で覚醒させ、世界に送り出すレールを徐々にではあるが作っていった。その頃、すでに外国のライダー間では、「モリワキチームで走る事が出来れば世界の扉が開ける」と言ううわさが広がっていた。
私は、次々と卒業して行ってしまうライダーを失う寂しさから、社長が苗から大切に育て、やっと新芽が吹き、安堵する間もなく他所に、根こそぎ持っていかれてしまう悔しさを社長に訴えました。

すると、社長は「彼らが世界に向かって活躍出来るチャンスを与えてくれたメーカーに、とても感謝している。仮に我々がライダーを拘束した場合、将来世界チャンピオンを取れるかもしれない可能性をも奪ってしまう方が不幸と思わないか?残念ながら未だ我々の力では、彼らを連れて世界に出て行く事は出来ない。
でも将来実力がついた時は、絶対に世界に出て行くから。たとえ何十年かかろうが、またどんな事があっても絶対に諦めないから」と将来の構想を語気強く話してくれた。そうだ、今は力を蓄える時期なんだ。一刻もはやく夢が実現出来るように頑張ろうと胸に秘めた私でした。

1978年から始まった鈴鹿8時間耐久レースは、毎回様々なドラマを生み出し、人気は徐々に高まり、入場者数も年々上昇の一途だった。
始めてみたロードレースに感動した若者は、自分もライダーになって○○選手と一緒に走ってみたいと思うのは自然の流れであった。

1981年耐久レースが終わったあたりから、モリワキにもライダー志望の人達の相談が増え始め、毎日のように遠方から親御さんと一緒に相談に来たり、手紙とか電話の問い合わせが相次ぎ、毎日何十件も来る相談に対しとても対応できなくなり、南海子マネージャーに相談したところ「いっその事、クラブ員を募集してまとめてめんどうをみたら?」と言われたので早速募集をしました。クラブミーティング当日は、中部地区を中心に約80名近く集まりました。80名近い人達は、真剣にライダーを目指す人から付き添いで来たとか、冷やかしとか皆様々でした。結局、クラブ員として入会をした人は”20名“くらいだったが、大半は未だ単車に跨った事が無い若者ばかりで、入会できた事に対して大いにはしゃいでいた中で、一人物静かだが何故か印象に残る男がいた。

解散後、近寄って行き、話しを聞いたところ「今、FX400を所有しているが、全くのSTDでナンバーも付いている状態だが、直ぐにでもこれをチューニングして欲しい」と頼まれた。私は快く引き受け、モリワキクラブとレーシングの違いを説明しながら思い出したことがあった。偶然、その週の日曜日は社内の半日ツーリングがあり鈴鹿スカイラインを3往復する企画があったので技量を見る為彼を誘いました。

最初の目的地である”鈴鹿スカイライン“の頂上に到着し、始めて見る彼の走りを観察しました。印象は若干体が硬く感じられたが奇麗な走りだなと思いました。
ツーリングが終わった次の日、FX400はチューニングの為、モリワキのガレージに入ってきた。4週間もするとモリワキカラーに塗られたFX400レーサーが仕上がった。私は、以前から社長にクラブ員の教育をお願いしていたので「よさそうなライダーが見つかりました」と報告すると「このマシンのオーナー?」と聞いてきた後、彼は晴れてモリワキ学校に入学する事が出来た。

クラブ員の彼は、入学から半年経たない間にモリワキレーシングに所属するようになった。その彼とは”福本忠選手“のことです。
その年の鈴鹿サンデーロードレースでデビューした福本選手は、期待通り見事優勝した。その時、優勝こそ逃したが、同じ表彰台に上がった選手がとても気になっていた。

私は、その長髪のライダーをスタート前から注目していた。思っていた通り、その長髪ライダーはこれがデビューレース?と思えないくらい舞台度胸が有り、ライデングテクニックもポテンシャルを秘めていて、久々に私の脳裏に強く焼きついたライダーだった。このライダーも、社長に育ててもらいたい一人だった。しかし、社長に了解を取り付けなければならないのだが、あいにく今日は現場に来ていない。どうしようと考えている間に、シャンパンファイトが終わり、3人のライダーが表彰台から降りてくると、私はそのライダーに声をかけた。一年経ったら来なさいと声をかけました。(社長に説明する時間が欲しかった)。彼は、その言葉を聞いた瞬間喜びを体全体で表現しているのを見て、何故かライダーの素質はもちろんだが、他の人には無いスター性をも持ち合わせている男だな、とその瞬間感じた。その男は、数年後前代未聞の二輪レースバブルを生み出した張本人だった。

しかし、未だその時は本人も周りの人達も、数年後爆発的大ブームの中心的役割を担うのが”宮城光選手“とは誰も予想だにしなかった。


2011年11月24日 (木)

社長マジック第2章

ゼッケン14番「ガードナー」のマシンはストレートを通過する時でも、タイヤをスリップさせながら走っている為、微妙にバランスをとりながら走らなければならず、その為わずかにお尻を右側に落として走っているように見えたのだ。
鈴鹿200kmレースの時は、左足首を骨折しているということも有り、普通のタイヤで走ったが(あいにく本番は雨だった)今回体調万全のガードナーには、一番滑りやすいタイヤを履かせていたのだった。社長は、鈴鹿200kmレースの時セッティングの傾向は二人とも似ている事をつかんでいたから、ジョンペイスには本番用タイヤを履かせてセッティングを担当してもらっていたのだった。

しかも、耐久レースに合わせて新作カム「ステージ5」というカムを入れたカワサキZ-1のエンジンは150ps以上というとてつもない馬力を発揮していた。
ガードナーは、鈴鹿200kmレースの時より馬力が上がっているエンジンだという事は、エンジンベンチを覗いた時すでにわかっていた。しかし、それ以外何も知らされていないガードナーは、今までよりエンジン出力が出ている為、滑っているのだと思い込み、出力特性に合った乗り方を勉強していた。

それでもなかなかジョンペイスのタイムを上回る事が出来ないガードナーは、せっかく馬力をあげてもらったのにうまく走れない何とかしなければと焦りながらも、さすが将来の世界チャンピオン「ガードナー」は徐々に片鱗を見せ安定したスライドをさせてタイムを上げられる方法をつかんでいった。
いよいよ予選当日、本番用タイヤを履いた「ガードナー」は3~4周慣らしのつもりで走っていたが、すでにトップ5に入る16秒後半から17秒前半で走っていたが、タイヤは全く滑らないガードナー自身は慣らし感覚のつもりだったが、まさかそんなにタイムが出ているとは思っていなかった。その為、サインボードは全く見ていなかった。すでにポールポジションに近いタイムを出している事を知らないガードナーは全開で走り始めた。

6周目は16秒01で走って、いったさあ運命の7周目に突入すると、やはり公式練習の滑りやすいタイヤで走っている時と同じ滑り方をしながら西コースに消えて行ったらしい(私はピットロードにいた為見ていなかった)。
ピット上で東コースの走りを見ながら区間タイムを計っていた社長は、「西コースで大きな失敗が無ければ、間違いなく自分の考えていたタイムで戻ってくるはず」と確信していた。最終コーナーの一点を見つめていると、青のカウリングに包まれたゼッケン14番の姿が現れた瞬間、ホッと胸をなでおろした社長だったが慌てたのは私だった。
3秒~4秒くらい前をロジャーマーシャル選手が走っていたから、おおいに慌てた私だった。だって同じカラーでレーシングスーツも全く同じ。ただ違いは14番と15番のゼッケンだけで、おまけに当時のコースはシケインが無く、最終コーナーは5速全開で来るからたまらない。

あの時、丁度タイム的にゼッケン15番が見えて来るはずだった。
ゼッケン15番がストレートを通過すると、最終コーナーにゼッケン14番の姿が見えるというパターンが何周も続いていたから、2分9秒でゼッケン14番が最終コーナーに現れた時は、ロジャーマーシャルのマシンなのかガードナーのマシンなのか、目の前に来るまで分からず焦って時計を押したから、はたして私の計測が正しいのか分からずSメカニックの時計と照らし合わせると、コンマ0.1秒くらいの違いしかなかったので、ピットの上にいる社長に確認した。

ピットの上にいる社長は黙ってうなずくとSメカニックは大変喜び万歳をしました。
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すると、社長は「落ちつけとにかく冷静になれ。それとガードナーをピットに入れろ」と言葉でもパントタイムでもなく目で話しました。そんな重要な事を目で話す社長も社長だが、それを完全に読み取る我々も凄かったね。
最も、通用しない人にはそんな事はしないと思うが。
すっかりだまされていたガードナーは、だまされていた事には触れず満足げに「ヘアピンコーナーで失敗しなければもっと行けたよ」と、あっさりと言っていました。
ガードナーに教えたマシンコントロールを学ぶ重要性を重視していた社長は、ライダー育成の為トレーニングマシン開発の必要性を強く感じ取っていた。

社長の夢が実現したのはそれから11年後であった。1992年モリワキからMH80というトレーニングマシンが発売された。
社長は常々「世界のレース界の為誰かがやらなければいけないんだ。赤字でも続けて行かなければならない仕事なんだ」と言い続け、日本国内はもとより世界中に輸出されて行った。
現在もMH80に育てられたライダー、はモトGPチャンピオンのケーシーストーナーを筆頭に今も尚、世界のトップクラスで走り続けているライダーは数多くいる。


2011年11月23日 (水)

社長マジック

従来のコースレコードを大幅に塗り替えたガードナーは当然のように1コーナーに一番近い位置からのスタートとなったが、あまりにも戦前の予想とかけ離れたタイムだったため、メーカーチームを始め他のチームからはエンジンの排気量が違うのではないか?とか色々なうわさが飛び交った。我々はそんなくだらないうわさに反論する事も無く、着々と決勝に向けた準備にとりかかっている。

世界初のモリワキアルミフレームがもの凄いポテンシャルを秘めている事は、一部の専門家を除き、世間ではあまり知られていなかった。社長は以前から、新型アルミフレームのポテンシャルを多くの人達に証明出来る最大のチャンスは今度の8時間耐久レースの予選と決めていた。それを実証してくれたのが、無名ライダーワインガードナーのライディングだった。大メーカーより天才クロスビーよりも早く、しかも社長自身が予測したタイムで走り、モリワキアルミモンスターのポテンシャルを世界に実証出来た事が最大の喜びだった。

では何故ガードナーはあんなタイムで走れたのか?

今だから話せる社長マジックを披露しましょう。

ガードナーは走行が始まってから順調にタイムを上げて来てはいるが、ジョンペイスとのタイム差はあまりなく、平均ラップタイムではジョンペイスの方が速いタイムで走っている。クロスビーは別恪として、二人を総合すると他の何処のチームよりも速い平均タイムで走っているので、私は大いに満足し、社長に「二人とも順調に仕上がっていますね。この状態だとジョンペイスの方が乗れているから、スタートは彼にしましょうか?」と言うと、社長は自信たっぷりに、「ガードナーはこんなタイムでは走らないよ。クロスビーより速く走れるはずだ。クロスビーが一番焦るだろうな。土曜日は面白くなるぞ。まわりの人達は皆ビックリするだろうな。」とニコニコしながら私のほうに顔を向けたが、社長の言っている意味が全く理解できず、ポカーンと口を開いている私でした。
社長が言った言葉を考えながらコースに目を向けると、背中を丸めたガードナーがストレートなのに少し右側に腰を落とすようにして通過していきました。ラップタイムを見ても何も変わらず安定したタイムだったので、社長が言っている事がますます理解できなくなってしまいました。
すっかり考え込んでしまった私を見て、社長はある秘策を教えてくれました。

社長の秘策を聞いた私はストレートを通過して行くガードナーのマシンに目を凝らしてみていると、社長が教えてくれた通り私にもハッキリと解りました。

その社長マジックとは?


2011年11月22日 (火)

1981年の印象深い出来事パート2

30年も前の記憶を思い出しながら書いたのですが、あの頃の忘年会は毎年あんな状態ですので、若干前後している可能性があります。ブログを見たY君とかS君が、この事は次の年だったとかそれより前の年だったとか思うかもわかりませんが、間違っていたからって地球がひっくり返る様な事でもないので、ご容赦願います。

さあこれで当分ブログをサボろうと思い朝出社すると、私が退社した後置いたのであろう昔の写真がどっさりと積んであるではないか。

誰が私の机に置いたんだ。出したらきちんと戻しておけとブツブツ言いながら隣の机に置いて席を離れ、工場と打合せをすませた後席に戻るとまた写真が置いてあるので、これは続けて書けと言う無言の圧力かな?と思い、写真を見ながら当時の記憶を手繰り寄せ書きます。

前回ブログの忘年会を書いた年は1981年で、その年の耐久レースはワインガードナー選手がコースレコードを樹立した年でした。

モリワキのホームページを見ている人達は充分知っている人達ですから、あまり詳しいレースレポートみたいなことは書きません。しかし、私が現場で見て感じたことを書きます。6月のスズカ200kmロードレースには、今回8H耐久レースを戦うワインガードナーとジョンペイスがエントリーし、結果は左足首を骨折していたワインガードナーが優勝。ジョンペイスは3位と順調なすべりだしをしたわけですが、未だ安心は出来なかった。敵はヨシムラのクロスビーとクーリーが、最大のライバルになると予測していた。

耐久ウイークに入り、段々緊張が高まりつつもメカニック達は淡々と作業をこなしています。そんな中、オーストラリアからガードナーとペイスの応援ツアーで、総勢20名余りが鈴鹿に到着しました。モリワキとしては、せっかく来た応援団を鈴鹿だけではなく少しでも日本という国を知ってもらいたいと、京都見学に連れて行く事にしました。行く前に一番何がしたい?と聞くと、座禅を体験したいと言うリクエストが圧倒的だったので、知人の坊さんに紹介していただき、京都に向かいました。

当たり障りの無い見学コースを順調に消化して行き、午後1時から最大のイベント、座禅の開始です。皆さん初めての体験で興奮し、さらに座禅を組むことが出来ず、一瞬騒がしくしてしまった。 すると、本来苦しい修行を積み重ね悟りを開いているはずの坊さんは、仏門に入った方とは思えないくらいぶち切れて、出て行けと怒りまくり退場させられました。

その時の坊さんはただ気の短い普通のおじさんみたいだった。やはり苦行を積んでも腹は立つんだと、その時私の方が坊さんより先に悟りました。でも相手は異国から少しでも日本の文化伝統に触れようと来た人達ではないですか?始めから規則も何も解らない人達を迎え入れる事を許可したのだから、もっと御仏の心で望んで欲しかったね。

私はせっかくの観光に水を差されたような気分になったが、外人さんは禅を体験したごとく無我になり、日帰り観光を楽しんでいた。

夕方会社に戻ると今日の走行が終わり、明日の走行準備の為皆忙しく働いていました。

バーベキューの用意が出来たとマイクで放送されると、何処からとも無くゾロゾロと皆さん集まって来ましたが、おや?我がモリワキスタッフは何処にいるのかわからない。そのくらい多くの人が集まって来ています。最後の焼きそばが全員に行き渡った頃クロスビーが私の所に来て、ライダー全員飲みに行くからと言い残し、未だ会話を楽しんでいる集団の中に入っていきました。

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その夜、外人で貸しきり状態になったスナックでは野球拳が始まり、殆んど全裸に近い状態になってしまったのが、優勝候補の○×選手だった。

殆んどの有力ライダーが参加した宴会も終わり、次の日は練習です。

朝若干寝不足気味のライダー達だが、練習が始まるとさすが皆プロライダーだけあり順調にタイムを上げています。

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その中にあって、モリワキとヨシムラの仕上がり状態は絶好調です。

POP吉村さんも、ガードナーやクーリーと談笑したり、社長と南海子マネージャーも余裕で昔からの友人に冗談を言い合うなど、両監督は笑みが絶えません。

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さあ、いよいよ明日は予選だ。当然その夕方も皆でバーベキューを楽しんだ後、昨晩のメンバーは全員夜の街へ繰り出していきました。

明けて予選当日、夜の顔とは全く違う勝負師の顔つきになったライダー達は、次々とピットロードを出て行きました。我がチームはゼッケン15番のロジャーマーシャルがピットを出て行くと、後を追うように同じレーシングスーツに身を包んだゼッケン14番のガードナーが出て行きました。

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その日の私は、ピットロードでタイム計測をしていました。
同じ間隔で何周回っただろうか?あれ?最終コーナーを出てくる時のエンジン音が違う。

おかしい?目を凝らして見ると、ゼッケン15番ではなく、14番と見えるではないか。慌ててストップウォッチを押し、計測タイムを見ると14秒76とある。自信が無くなり、ピットの上で見ている社長を見やると、そのタイムは間違っていないよ。それとこの周でピットに入れるように。と目だけで会話をしました。

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隣のヨシムラピットに情報が伝わると、クロスビーは普段全く見せた事が無い程厳しい表情になり、本能的に湧き上がって来る闘争心を押さえることもせず、真っ赤に染まった顔を白いヘルメットで覆うと飛び出すようにピットを出て行きました。ガードナーは、もしクロスビーが自分のタイムを更新するようなら、僕はもう一度走ると言って、すでにヘルメットを手にしています。

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さあ計測が始まりました。ピットの上では社長がタイム計測しています。

区間タイムはガードナーを上回っている。私達はやられたと思いました。

しかしもう余り時間が無い。でもガードナーは再び出て行く準備をしている。

クロスビーはガードナーのタイムを更新しながら逆バンクを通過し、ダンロップブリッジの上がりきったところに差し掛かると、突然リヤタイヤがスライドして大きくタイムロスをしてしまい、万事休す。ガードナーはピットを出ることなく、安堵の表情でヘルメットを脱ぎました。

ピットに戻ってきた社長はガードナーとガッチリ固い握手を交わすと、二人の目から自然に涙があふれ出ていた。


2011年11月17日 (木)

そして二次会

宴会は終わったのだが誰一人部屋に戻る様子は無く、いくつかのグループに分かれ次は何処に行こうかとか話し合っている。

私が廊下に出ると新人3人組が互いに肩を抱き合い円陣を組むようにして泣いているではないか?

心配して近寄りかけたら突然3人入り乱れてケンカを始めたので、慌てて止めに入ろうとしたらまた肩を抱き合い泣き始め、お互い頑張ろうなと言いながらまた突然取っ組み合いになる始末です。

あまりにも不可解な光景なので興味深く見ていたら、K君達が飲みに行くからと誘うので私は3人組の方に向けて指を刺すと、K君達は3人組の異常な光景を見ても先輩として止める様子も無く、ニヤニヤ笑いながら「さあ行こうぜ」とホテル内のバーに向かいました。

バーの横にはダンスホールが有り、暗いホールでミラーボールのみが光を照らしています。

激しいリズムが流れる中、全くリズムに乗れない男性二人が髪の毛を振り乱し踊っている姿があまりにも面白いので目を凝らして見ると、あまり酒の飲めないN君とK君だった。あっちもこっちも何と言う後輩ばかりなんだろうと思いながらバーに入りました。

カウンターに座り飲み始めてから5分くらい経っただろうか?
Y君が息を切らせて飛び込んで来ました。

すでに宴会で酔いつぶれていた“Y君”を、二次会に誰も誘わず来たものだから一人気がつくと宴会場には誰もいない、色々探し回りやっと探し当てたようです。

Y君は身長185cm、体重100kg強とモリワキ1番の巨体です。無視されたと勘違いしたY君はとても機嫌が悪く、皆が座っているカウンターの後ろに来ると、席を譲ろうとして立ち上がった後輩に突然頭突きをかましたからたまりません。

頭突きをされた後輩も、誘わなかった事を詫び、やっとご機嫌が直ったY君が席に着くと、私はY君を一瞥し、いきなり帰るぞと声をかけ席を立ちました。

飲みかけたY君は、直ぐに席を立つことが出来ず、また一人取り残されました。

私とY君は、自他共に認める社内で一番仲の良いコンビですが、酔って後輩に暴力を振るったY君を許すことが出来なかった。

「気分転換に卓球をやろう」ということになり、娯楽施設に行くとすでに社長達がやっていました。

順番を待っていると、バーに一人取り残され、怒りと酒酔が重なり、赤鬼のような形相をしたY君が、まるでヒグマが威嚇するように両手を上げ、今にも飛びかかりそうな勢いで向かって来ました。それを後輩が、3人がかりで抑えているのだが、何せ体重100kg強が全開で突き進んでくるわけだからとても静止できません。私はS君に向かって「ホーあんな剣幕で突き進んできて誰を目標にしているのかな?」」と言うと、S君はすかさず「やっぱり原さんでしょう。一番悪いんだから」と言われたので、「私とは年中ケンカしているんだから、今日は違うでしょ。I君あたりがくさいと思うよ」と二人で笑っていると、Y君に飛ばされたり転んだりかなり騒がしくなってきたので、社長がK君に「どうした?」と聞いてからY君に向かって、「もうお前は部屋に帰って寝ろ!」と言うと、芸を覚えたてのサーカスの熊のように歩いてエレベーターに向かいました。しかし、エレベーターを待っている間に社長の言葉を忘れてしまい、覚えているのは怒りしか無く、また突撃しようとしたが、今度は5人に押さえられ部屋に戻されました。部屋に戻った付き添いの5人は、浴衣の紐でY君の手足を縛りあげ、酔いが醒めてきたY君が「トイレに行きたい」と哀願しても許してもらえなかったそうです(後日語ってくれたY君談)。

そんな2次会も終わり、朝が来て私は朝飯を食べていると、青白い顔をした連中がぞろぞろ食堂に集まってきた。しかし、二日酔いがひどくて朝飯を食べる事が出来ず、ジュースばかり飲んでいる後輩ばかりでした。新人3人組は「昨日の出来事は何だったの?」と思うくらい談笑しながら朝食をとっています。

普通の会社なら、朝食が終わるとここで解散するのが一般的だが、私達は未だ解散なんか致しません。これからキャンプに行くのです。今日は12月28日、明日から冬休みになるので気楽にキャンプが出来ます。今回は船で無人島に渡りキャンプをするのです。

野菜と調味料と水を積み込み出発です。○高丸という船ですが、とても年式が古く途中でバラバラになってしまいそうな船です。一回では全員渡る事が出来ないので、何回も往復します。先発隊は社長始め8名くらいでいざ出発です。

港を出るといつ壊れても不思議ではないくらいの船ですから大変で、昨日あんなに強気だったY君は青ざめて、「一人救命具を付けて大丈夫かな?」と事あるごとに私に話しかけてきます。社長は不安げなY君を見て不安が募るような冗談ばかり言うので、「最後は港で待っているから船を戻してくれ」と言い出す始末でした。

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無事無人島に上陸し、社長始め潜水組は手際良く準備しています。

陸組は、獲って来るだろう魚の料理の準備に取り掛かり始めました。

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この写真を見て12月末と思いますか?どう見ても冬の格好ではないですね。
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最初石鯛が上がってくると、次々と色々な魚が上がってきました。

オット大事件発生 4歳に満たない緑さんが何処にもいない。スワ誘拐か?

でもここは無人島だった。捜していると社長が「海から大きな声で大物が獲れたから取りに来い!」というので若手が行くと、魚ではなくびっしょり濡れた“緑さん”を拾って来ました(失礼)。原因は活発に動き回っているうち、足を滑らし、海に落ちて行ったらしい。そう言えば未だ歩けずハイハイしている頃、私が社長の自宅で業務報告をしていると、廊下をハイハイして来て飛び跳ねているバッタかスイッチョンかわからないが、いきなり捕まえて口の中に入れてしまうほど、“激しい”子供だったから、海に落ちても何ら不思議ではないですね。

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2011年11月16日 (水)

キャンプの話が出たので、もう一発

キャンプの話題が出たついでにもう一丁、以前のブログで「私はついに血を吐いた」と言うタイトルがあったと思いますが、その頃の話を思い出しました。

1981年頃の話です。あの頃、我々の忘年会は“大いに食べて、飲んで、歌って、暴れて、泣いて、1年間の垢を落とす”というのが恒例です。“飲んだり、食べたり、歌ったり”は、何処のホテルでも受け入れてくれるのですが、当時は平均年齢も24~25歳と若く、ファイトの塊みたいな連中ばかりですから、余りあるエネルギーを仕事だけでは消化できず、暴れたり泣いたりするものですから、そんな連中を毎年気持ちよく受け入れてくれる所は、尾鷲のホテルしか有りませんでした。

宴会場には6テーブルが用意されており、テーブルの上には刺身の舟盛を筆頭に、色々な魚料理とか寿司がテーブル一杯並べられ、更に一人一尾の伊勢海老も並んでいます。

4~5名が一組で、一つのテーブルに着席する訳ですが、さすが上座である社長のテーブルには誰も着席していません。

社長と南海子マネージャーが入って来て全員が各テーブルに着座しました。

社長のテーブルには私とS君とK君が座り、いよいよ宴会のスタートです。

先ず社長が立ち上がり、挨拶を始めました。全員に1年間の労をねぎらい、来年のテーマと目標を示しました。まだ素面の連中は、社長の挨拶を神妙な顔をして聞いていました。

私が乾杯の音頭をとると、他所のテーブルは堰を切ったようにぐいぐい飲み、パクパク食べ、とても会話を楽しんでいる雰囲気では御座いません。

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私達のテーブルは、舟盛も御寿司も始まる時とあまり景色は変わっていません。社長と会話を楽しみながら、ふと後ろを振り返ると、まさにテレビで見る外国のドキュメンタリー番組さながらに、蟻の大群がすべてを食べつくして移動して来る姿を想像してしまいました。

さあ、すべてを食べつくした蟻達は新天地を求め移動を始めようとしました。しかし、蟻達が目を付けた食料の豊富な大地は、いかに横着な蟻の大群とて足を踏み入れられるような場所では御座いません。狙った大地は社長と私達のテーブルです。

躊躇していた蟻は、考え抜いた末ビールを持ってお酌に来ました。

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社長を始め、テーブルに着座している全員にお酌を終えると、社長に恐る恐るお伺いを立てました。「社長、そこにある寿司を一つ頂いていいですか?」

「オーッ、良いよ好きなだけ食べなさい」と言われた事を聞きつけた別の蟻の大群は、我先にお銚子とかビール瓶を持って来ました。あっという間に他のテーブルと同じ景色になって行きました。

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腹がくちくなると、歌が得意なもの、即席芸が得意なものが舞台に上がり、芸を始めます。一芸が終わり、舞台から降りた者は、慰労の意味を込め?皆に酒をすすめられ、酔いつぶれていく者も出始めると、南海子マネージャーは未だ4才に満たない緑さん姉妹を寝かしつけに行こうとするのですが、「もっとお兄ちゃん達と遊びたい」と駄々をこねる姉妹を強引に連れて行かなければならないのには理由があるからです。もう少し酔ってくると必ず出る芸が子供にはあまりにも強烈だからです。

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はしゃぎ過ぎたのか、床につくとすぐ寝ていったみたいで、南海子マネージャーは直ぐ戻ってきました。さあいよいよメインイベント、先輩芸の始まりです。

入社歴3年生以上全員が舞台に上がり一礼すると、すでに南海子マネージャーは涙を流しながら笑っています。これから始まるであろう芸を思い出し、笑ってしまっているようです。しかし、新人は何の事かさっぱりわからず、舞台と南海子マネージャーを交互に見ながら不思議な顔をしています。

私が「ただ今から、会社創立以来伝えられてきた祭事を始めます」と声を張り上げると、今まで我慢していたのか?南海子マネージャーの横に座っていた社長が笑い始めたので、何も解らない連中まで笑い出したので、それを見ていた舞台にいる連中まで笑い出してしまった。私は、指揮棒を持ち始め、K君に指揮棒を向け、次はS君に、最後はH君。すると3人は指揮棒に合わせ、それぞれ「ド・ミ・ソ」と和音を奏でました。K君は、ドの担当、S君はミの担当と言う様に決め、あまった人員をそれぞれ後ろに付け、さあいよいよスタートです。

本番が始まると、始めから笑っていた南海子マネージャーは腹を抱え笑い、最後はむせています。

しかし、残念ながら何をしてそんなに面白いのかは、ここで書ける内容ではないので省略させていただきますが、皆さんが想像するほどおかしな内容ではない事を誓います。次は宴会も終わり、グループに分かれ2次会の出来事に移ります。


2011年11月15日 (火)

キャンプ場

キャンプ場に来てから、4輪チームも無事到着し早速設営に取り掛かりました。

各自手馴れたもので直ぐ終わり、早速晩御飯のおかずを獲る為、一斉に海に入り

好きなポイントに泳いでいきました。

私はゴムボートを漕ぎ、社長の向かうポイント付近まで行き船上で待機です。

社長は水中眼鏡に、シュノーケルとモリを持ち手招きで、もう少し近くまでボートを

寄せるように指示すると潜っていきました。

潜水時間は実際1分位らしいのですが、私の感覚では潜ってから5分から6分に

感じるくらい長く感じます。

大丈夫かな?と心配するくらい潜っていた社長が、やっと水面に出てきて

私の乗っているボートにポィット放り投げてきました。

飛び跳ねている魚を見ると石鯛ではないですか。

「ヤッホー、先ずはこれで酒の肴は確保できた」と喜んでいると、社長は

「少し小さかったかな?」と言い残し再び潜っていきました。

期待して待っていると、今度は蛸を獲ってきました。

蛸は気持ち悪く動いて、私の乗っているゴムボートの中を動き回り、私の

ふくらはぎに乗ってきたので、蛸をつかんで引き離そうとしたら、メリメリという

音がして離れたが、ふくらはぎには吸盤が4個ぐらい残っていた。

私がそんな格闘をしている時でも、社長は順調に獲物をゲットして次々と

ボートの中に放り込んできます。私は、鵜匠になった気分になり、もし私が鵜匠

だったら鵜は今潜っている○△×かな?と、心の中で思い一人ニヤニヤしていると

社長が水面に上がって来て手招きするので、今思っていたことがばれたかな?

と少し焦りながらボートを寄せると、社長はK君とH君を呼ぶようにと言い、

また潜っていきました。近くでサザエを拾っていたK君とH君が来ると、3人は立ち

泳ぎをしながら何か打合せをして一斉に潜っていきました。

何だろうと水面を見ていると、3人がかりで獲物をもって上がってきました。

何と巨大なエイでした。ゴムボートに乗せられると、気持ち悪く怖いから

K君とH君に岸まで泳いで持って行ってもらいました。

キャンプ地に戻ると料理に取り掛かるわけですが、女性軍団はご飯と魚の

味噌汁を作り、エイのバラシは新人の仕事です。

問題の酒の肴は、社長がテキパキと石鯛の刺身を作っているので問題なし。

蛸は塩で揉んでぬめりを取り、刺身と茹蛸にしています。

私はFX400マフラーのテストレポートを書き終え、程よく冷えたビールを取り出し

行儀良く肴を待っていると次々と出てきました。

皆はエイを口にして、鶏肉みたいで美味しいと言いながらパクパク食べています。

私は不気味で、あんな恐ろしいエイを何の根拠も板前経験も無い素人が

さばいた物なんか食べられる訳無いじゃあないですか。

しかし、問題はエイに手を付ける事が出来ない私を見ていたS君は

酔って真っ赤な顔を私に向けて「根性なし」とか「臆病者」とか罵るので

仕方なく口元まで持って行き、食べるふりをして後ろに放り投げました。

S君は酔っているので、食べたふりをして後ろに放り投げている事には

気がつかず「美味しかった?」と聞くので「意外に美味しかった。

鶏肉みたいな感じだね?」と言うと、S君は満足げに缶ビールを口元に

持って行きました。私は積極的にエイの皿に箸を伸ばし、口元まで持っていっては

後ろに放り投げていました。お腹も満たされ、程よく酔った男性達はお決まりの

儀式を始めるのです。一日も早く、先輩に追いつき追い越せと夢を見ている連中と、

先輩としての威厳を示さなければならない集団と二手に分かれ、先ず後輩が

根拠の無い自分勝手な技術論を語り始め、それに先輩が答えると言う図式です。

始めは丁寧に答えているのですが、酔う程に全員入り乱れ口角泡を飛ばし、

時には手が出るのでは?と思うほど熱くなり始め、終焉が近くなると言語明良

意味不明みたいな話になって行くのです。それを見届けた女性達は、宴会の

終わりに近づいた事を察知し、せっせと片付けを始めるのが恒例です。

女性は民宿で泊り、男性はテントで一泊します。

酔っ払った連中は、理想と現実が区別つかない話を好き勝手にしゃべりながら

横になり眠っていきました。私も横になり、今日のツーリングを思い浮かべながら

眠りました。朝騒がしいので目を覚ますと、私の寝ている後ろで昨晩と違い

元気一杯のN君とS君がブツブツ言っていました。目をこすりながら起きると、

「原さん汚ネー、結局エイを食べていなかったじゃーないか?」と言うので

「何を言っているんだ。ちゃんと食べるところを皆も見てたではないか」と言うと

「じゃあこれは何?」と指をさすので、目を向けた先には、エイの唐揚げから

蒲焼までそっくり捨ててあり、何も言い訳できなくなった私は、朝日が昇り始めた

ばかりのまだ肌寒い海に向かって思い切り飛び込みました。

しかしそんなことでは許してもらえる訳も無く、当然朝飯のおかずはエイしか

与えてもらえませんでした。


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