黄金時代の到来
鈴鹿サーキットの“絶対コースレコード“を打ちたて、一躍有名になったワインガードナーは、実力と実績が認められ、ホンダUKファクトリーライダーとして、世界の檜舞台に挑戦する足がかりを掴むべく、モリワキレーシングを卒業して行った。
グレームクロスビーは2年で卒業し、スズキワークスライダーとして世界GP500で活躍しており、次のライダーワインガードナーは1年で卒業して行った。
社長はクロスビーを皮切りに、世界各国から情報を集め、非凡な才能を持ちながら世界に出て行くチャンスに恵まれなかったライダーを発掘し、モリワキ学校で覚醒させ、世界に送り出すレールを徐々にではあるが作っていった。その頃、すでに外国のライダー間では、「モリワキチームで走る事が出来れば世界の扉が開ける」と言ううわさが広がっていた。
私は、次々と卒業して行ってしまうライダーを失う寂しさから、社長が苗から大切に育て、やっと新芽が吹き、安堵する間もなく他所に、根こそぎ持っていかれてしまう悔しさを社長に訴えました。
すると、社長は「彼らが世界に向かって活躍出来るチャンスを与えてくれたメーカーに、とても感謝している。仮に我々がライダーを拘束した場合、将来世界チャンピオンを取れるかもしれない可能性をも奪ってしまう方が不幸と思わないか?残念ながら未だ我々の力では、彼らを連れて世界に出て行く事は出来ない。
でも将来実力がついた時は、絶対に世界に出て行くから。たとえ何十年かかろうが、またどんな事があっても絶対に諦めないから」と将来の構想を語気強く話してくれた。そうだ、今は力を蓄える時期なんだ。一刻もはやく夢が実現出来るように頑張ろうと胸に秘めた私でした。
1978年から始まった鈴鹿8時間耐久レースは、毎回様々なドラマを生み出し、人気は徐々に高まり、入場者数も年々上昇の一途だった。
始めてみたロードレースに感動した若者は、自分もライダーになって○○選手と一緒に走ってみたいと思うのは自然の流れであった。
1981年耐久レースが終わったあたりから、モリワキにもライダー志望の人達の相談が増え始め、毎日のように遠方から親御さんと一緒に相談に来たり、手紙とか電話の問い合わせが相次ぎ、毎日何十件も来る相談に対しとても対応できなくなり、南海子マネージャーに相談したところ「いっその事、クラブ員を募集してまとめてめんどうをみたら?」と言われたので早速募集をしました。クラブミーティング当日は、中部地区を中心に約80名近く集まりました。80名近い人達は、真剣にライダーを目指す人から付き添いで来たとか、冷やかしとか皆様々でした。結局、クラブ員として入会をした人は”20名“くらいだったが、大半は未だ単車に跨った事が無い若者ばかりで、入会できた事に対して大いにはしゃいでいた中で、一人物静かだが何故か印象に残る男がいた。
解散後、近寄って行き、話しを聞いたところ「今、FX400を所有しているが、全くのSTDでナンバーも付いている状態だが、直ぐにでもこれをチューニングして欲しい」と頼まれた。私は快く引き受け、モリワキクラブとレーシングの違いを説明しながら思い出したことがあった。偶然、その週の日曜日は社内の半日ツーリングがあり鈴鹿スカイラインを3往復する企画があったので技量を見る為彼を誘いました。
最初の目的地である”鈴鹿スカイライン“の頂上に到着し、始めて見る彼の走りを観察しました。印象は若干体が硬く感じられたが奇麗な走りだなと思いました。
ツーリングが終わった次の日、FX400はチューニングの為、モリワキのガレージに入ってきた。4週間もするとモリワキカラーに塗られたFX400レーサーが仕上がった。私は、以前から社長にクラブ員の教育をお願いしていたので「よさそうなライダーが見つかりました」と報告すると「このマシンのオーナー?」と聞いてきた後、彼は晴れてモリワキ学校に入学する事が出来た。
クラブ員の彼は、入学から半年経たない間にモリワキレーシングに所属するようになった。その彼とは”福本忠選手“のことです。
その年の鈴鹿サンデーロードレースでデビューした福本選手は、期待通り見事優勝した。その時、優勝こそ逃したが、同じ表彰台に上がった選手がとても気になっていた。
私は、その長髪のライダーをスタート前から注目していた。思っていた通り、その長髪ライダーはこれがデビューレース?と思えないくらい舞台度胸が有り、ライデングテクニックもポテンシャルを秘めていて、久々に私の脳裏に強く焼きついたライダーだった。このライダーも、社長に育ててもらいたい一人だった。しかし、社長に了解を取り付けなければならないのだが、あいにく今日は現場に来ていない。どうしようと考えている間に、シャンパンファイトが終わり、3人のライダーが表彰台から降りてくると、私はそのライダーに声をかけた。一年経ったら来なさいと声をかけました。(社長に説明する時間が欲しかった)。彼は、その言葉を聞いた瞬間喜びを体全体で表現しているのを見て、何故かライダーの素質はもちろんだが、他の人には無いスター性をも持ち合わせている男だな、とその瞬間感じた。その男は、数年後前代未聞の二輪レースバブルを生み出した張本人だった。
しかし、未だその時は本人も周りの人達も、数年後爆発的大ブームの中心的役割を担うのが”宮城光選手“とは誰も予想だにしなかった。


































