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2011年12月

2011年12月28日 (水)

黄金時代の到来 パートⅥ

サーキットに来てもクロスビーが何処にいるのかわからない。

ピットを歩いていると、日本人メカニックのF君が一生懸命マシン整備をしていたのでクロスビーの居場所を聞いたが、忙しさのあまり丁寧に答えてくれなかった。恨みに思った私は、日本に帰って来たF君と酒を飲むたび厭味を言っていじめました。ホンダNR500で出場している片山選手に聞き、やっとクロスビーに会うことが出来、一安心です。その夜からクロスビーのモーターホームで久しぶりにぐっすり眠りました。さあやっとGP見学が出来るわけですが、入場券とかパドックパスとか何もありません。しかしやはりいい加減なクロスビーですから、自分の首からかけていたライダーパスを私に渡し、これを使えと言いました。

私は不安ながらもそのパスであちこち行き、色々なゲートでクロスビーの写真入りパスを提示しても明らかに本人とは違うのにも関わらず、何処へでも通してくれました。レースはケニーロバーツが優勝、2位はスズキのウンチーニ、3位クロスビーで、ヤマハの1着3着でした。その夜、マルボーロチームスタッフとレストランで食事をした後、私は眠りにつきました。しかしクロスビーは何時ものように夜遅くまで大暴れをしたのですが、ワインを飲みすぎた為か次の日は二日酔いで、とても運転出来る状態では有りません。奥さんのブレンダと相談の結果、私がトランスポーターを運転しイギリスに戻ることになりました。

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一方その頃、イギリスに居残っているS君のもとへ、会社から急きょ日本に戻るようテレックスが届いたのですが、問題はすでに戻ってきているはずの私から何の連絡も無い為、すぐ日本に戻れないと焦ったS君は、「会社に原さんフランスで行方不明。いまだ連絡無し。」とテレックスを打ったらしいが、その頃すでにロンドンにおり、クロスビーの古巣・スズキUKに居ました。S君に心配かけてはいけないと思い、スズキUKのスタッフに「私は今スズキUKに居るから心配しないようにと連絡して下さい」と言ったら、気持ちよく引き受けてくれたので安心していました。しかし、忘れられたのか?通じなかったのか?私からの連絡が途絶えているS君は、ついに一人で帰国する決意をして、私が戻ったらこのチケットを渡すよう指示し、空港に向かう準備をしていました。たっぷりロンドン見学をした私はS君の仕事場に戻るとすでにホテルは引き払ったらしく、事務所に私の荷物と置き手紙がありました。

S君の手紙で全て現状を理解した私は、すでにS君は空港に向かっていると解釈し、ヒースロー空港まで1時間は走らなければならない、とても間に合わない、と焦っていると、帰国の準備を終えたS君が両手に荷物を持って歩いて来ました。

私の顔を見たS君は、文句を言う事もなく笑顔でむかえてくれました。二人はスタッフの運転する車に乗り込み一路空港に向かったのですが、ヒースローではなくもっと近い別の空港でした。

1ヶ月ぶりで日本に戻り、帰国命令が出た理由を聞き、次の日社長と私はその理由であるプロジェクトの説明を聞くため、また悪夢の新幹線に乗らなければならないのですが、前科がある私達のため事前に用意されていた切符は、グリーン車ではなく当然一般の指定席券でした。

帰国してから私は一ヶ月間の穴を埋める為、一生懸命働き、大いに遊びました。

その年の6月、社長と私は月刊プレイボーイ取材の為、モリワキMONSTERをハイエースに積み込み、取材場所である筑波サーキットへ向かいました。

撮影現場のカメラマンは何時もテレビに出てくる有名なK写真家でした。

撮影は夕方まで続きました。私は月刊プレイボーイ編集担当のM氏(後にモリワキクラブ員となり4時間耐久を走った)と話をしている時、偶然宮城選手の話題になり、「宮城には大変注目している。これから追っていく価値がある。」と熱く語っているM氏を見ながら、もうすでに注目している人達が居ること自体大変興味を持ちました。

さあ、いよいよ4時間耐久レースが迫ってきました。まあエントリー台数の凄い事。1グループ50台で8組~9組くらいあり、予選時間は20分しかない為、後ろに並んでしまったら3周の義務周回数にも満たない状況です。

そんな厳しい環境の中で、アルミフレームを手にしたモリワキレーシングの宮城・福本組は自信満々です。さて、いよいよ予選が始まりました。しかし優勝候補筆頭の宮城選手の乗ったマシンは、エンジン不調でなかなかタイムが上がりません。このままでは予選落ち、という屈辱をあじわうことになりかねない。しかし結果は絶対あってはならない事態にまで追い込まれました。

後は福本選手に託すしかないのだが、肝心のエンジン不調のままで快復の見込みがたたない。すべてを託された福本選手は不調のエンジンをだましながら何とか予選を通過する事が出来た。メカニックはすぐ工場に戻り、エンジンのオーバーホールに取り掛かったが、原因が見つからない。

エンジンベンチでも全く問題が出ない。しかしフレームに乗せると回らなくなる。さて原因は何か? 

今年はこれで終わりにします。来年また一生懸命思い出しながら書くからよろしく。
でも私は当時を思い出すため資料とかは一切見ていません。記憶だけです。だから時々おかしい事があるかも。でも許してね。


2011年12月23日 (金)

黄金時代の到来 パートⅤ

会社は長いフライトで疲れないようにと気を遣っていただいたのか、ビジネスクラスをとってくれていました。離陸後、食事もキャンセルするくらいグッスリ寝てしまい、目が覚めた頃皆が寝る時間となり、機内は暗く私だけが起きているという変な状況でした。

長かったフライトでしたが、ヨハネスブルグに到着し、空港では△×SAという会社のバリーGMが出迎えてくれ、ホテルまで送っていただきました。

その夜歓迎パーティーをしていただいたのですが、私もS君も鶏肉が大嫌いなのに、恐れていた通りやはり料理は鶏肉ばかりでした。

次の日から二人は△×SAに行き、S君はマシン整備を行い、私は?
目的が分からず来てしまったので、バリーGMと通訳を介しビジネスの話を行い、空いた時間に違うメーカーの代理店でミ△□コーという会社から大量のピストンキットとマフラーの注文を頂き、多少は来て役に立ったのかな?
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でもそんなに仕事があるわけでもなくフラフラしていると、バリーさんが「これから練習に行くから一緒に来てくれないか」という事になったのですが、何しろ言葉が「?」しかし蓋を開いて出てくる言葉は殆んどオートバイ用語だったので、助かりました。サーキットに向かう途中、田舎のガソリンスタンドに立ち寄ったのですが、ガソリンスタンドには長い行列が出来、何事だろうと見ているとタバコの一本売りをしていました。

頭では分かっていたつもりでも、現実を目の当たりにした私は、車中で南アの実態を話してもらいました。

黒人はどんな立派な学校を出ても良い仕事には就けない。また居住区も分かれていて、通勤バスもレストランも更にトイレも違うし、それとアジア人も黒人と同じ扱いだと聞いた。しかし日本人は名誉白人で、“普通の生活は白人待遇だが、結婚は出来ない”と言う話を聞き、滞在1週間であるがこの国の実態を垣間見ました。

サーキットに到着したらすでに練習していて、暫らくすると私の所に焼けたプラグを持ってきて、「M/Jは何番が良いか?」と聞いてきたので、いい加減に「5番上げるように」と言うと、あれあれ調子がよくなり、レコードタイムが出たらしい。皆さんご機嫌で会社に戻りました。

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私は会社で作業をしていたS君と合流し、二人で食事に行きました。私より英語が出来るS君はメニューを見て、“○○クラブ”と書いてあるから蟹だ。2人は問答無用で注文しました。最初に出てきたのは太刀魚をうなぎのように丸くしたような魚が出てきました。もう直ぐ蟹が出てくるぞ。しかし最初に出て来た料理以外は出てきません。二人ともその魚に手をつけないので、ボーイが来て「何故手をつけないのだ。とても美味しいよ。」と言うので、「蟹はまだ?」と聞くと、「エッ蟹?メニューにはないし。アッそうか、君たちが注文したのはこれだよ。これは“○○クラブ”と言うんだよ。」と言われた時の二人のショックは大変なものでした。

そんな事もあったりしたが、もう一週間経ち、今日は休日です。S君は南アが発祥地のコーヒーミーティング(単車で各方面から自然発生的に集まり、コーヒーを飲みながら単車の話をする)に参加し、帰ってきた時印象を聞くと、元ロードレースチャンピオンのS君でも付いていくのが精一杯だったと語っていました。理解ある国で、コーヒーミーティングがある午前中は取り締まりが無く、2台一組で0~400mを警官がいる前でも平気でやるそうです。しかし12時00分からは厳しく取り締まるそうです。

そんなこんなであっという間に週末になり、レースの為S君とキャラミサーキットへ向かいました。日本からモリワキが来ているということで、かなりの人にサインを求められました。3台エントリーしたレース結果は、確か1着と3着だったと思います。

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優勝祝賀会の次の日二人は急いで身支度し、次の目的地イギリスに向かいました。S君とはロンドンで3日間一緒でしたが、彼はイギリスに残り、私はフランスのポールリカールサーキットへ世界GP見学ではなく、ヤマハワークスで走っているGクロスビーに会う為、フランスに向かいました。もともと英語が出来ないのだから、フランス語でもイタリア語でも何でも来いという気持ちでしたが、ドーバー海峡をフェリーで渡る時、修学旅行らしき小学生が何語か分からないが蛍の光を歌っているのを聞いて、急に寂しくなってきました。フランスに入り、通関職員に「君は英語?フランス語?どちらが得意?」と聞かれたので「日本語だ」と答えると、フランス語で「アンドツルーメルシー」とかしゃべるので、「何を言っているのかわからねーよ」とブツブツ言っていたら、バックの中まで開けられた。

それからどのくらい走っただろうか?かなり走ったからそろそろ目的地まで着くだろうと場所を確認したら、まだパリまで行っていなかった。果てしなく続く道路を目的地までの時間が見えてこない不安を抱えながらひたすら走り、何回ガソリンを入れただろうか?もう目的地に来ただろう、と高速道路を下りたところに有った一軒の自動車屋さんの主人に「ポールリカールサーキットはどこか」と道を尋ねると、私の帽子を見て「貴方はカワサキ?」と聞くので、「そうだそうだ」と答えると、「右に曲がって次は○×で」と説明を受け、やっとクロスビーに会えると安心し、教えられた道を忠実に守り、やっと着いたところは普通のカワサキ販売店だった。

言葉が通じなかった事より、目的地が見えない旅に段々不安が高まり、まわりの山々は日本の山とは景色が違い、異国の地ということが痛いほど身にしみました。もしサーキットにたどり着けなかったらどうなってしまうのだろうか?不安と心細さの為か自然に涙があふれ出てきました。

どのくらい走っただろうか?ガソリンスタンドを見ると、レース見学らしきオートバイの集団がいたので、不安の頂点に達していた私はライダーのTシャツを力一杯掴まえ上半身を後ろにのけ反らせるようにして「サーキットは何処や?」と聞いたら、「ブデビデバブ」と言いながら指を差しました。指の方向を見ると、“ようこそポールリカールサーキットへ”と書いてありました。すでにそこはサーキット内でした。


2011年12月15日 (木)

黄金時代の到来 パートⅣ

別室に入れられ、これから何が起きるのか分からずうつむいて待っていました。

先程一緒に来た大柄な税関職員も、私を部屋まで案内すると、そのまま出て行ってしまい、部屋には私しかいません。

そっとドアを開けたら、幸い鍵がかかっていなかったので逃げ出そうと思ったが、未だ入国手続きが済んでいない為外に飛び出す事も不可能で、絶体絶命な状況に追い込まれました。

私はてっきり「この国で禁止されている物を持ち込んで捕まってしまったのかな?正露丸?梅干?そんな物で捕まるのかな?旅行会社はそんな事言ってなかったし。それとも成田で誰かにコッソリ危険なものを入れられたのかな?でも麻薬犬が何も反応しなかったけど…」 といろいろなことを考えてしまいました。どの位時間が経過したでしょうか?

日本国の警察署長みたいな立派なバッチをつけた人が、部下らしき人を2名引き連れて部屋に入ってきました。

絶体絶命の私は心の中では居直ったつもりでしたが、態度は借りてきた猫みたいにおとなしくなっていました。

一番上司と思われる人は、部下を背後に立たせ一歩前に進み出ると、私に向かって最大級の笑顔を振り向け、グローブみたいに大きく分厚い右手を差し出し、痛いくらい私の手を握り締め、「ようこそオーストラリアへ。日本も大変美しい国ですが、自国も自然豊かなとても美しい国です。一週間という短い期間ですが、十二分にオーストラリアを堪能して下さい。」と言っているらしいのですが、先程まで悪い事ばかり想像していた為、何を言っているのか理解できなかったが、私に対して怒っていないことだけは理解出来ました。怒られていない事に安心した私は、「何故自分を呼んだのですか?」と知っている単語は全て使い切り、さらに手振り身振りを加え話すと、「貴方が幹事だとお聞きしたので代表で来て頂きました。」と言われたように解釈した私は、少し前の出来事を思い出しました。

後輩が通関でインスタントラーメンの粉末スープまで開けられていたとき、幹事は誰だと聞かれ、その時私の方に指を差していた事を思い出しました。

それにしてもこの国では毎回こんな歓迎をするのかと聞きたかったが、さっきすべての単語を使い切ってしまった私は質問することも出来ずに沈黙していると、私の心を読んだ部下は、「旅行会社のツアー団体ではなく独自で20人近くの観光客が来て頂いたのだから、特別歓迎しました。」と言ったように思いましたが、何を言っていたか本当の事は分かりません。

やっと解放された私は、野次馬的興味深さで心配?している皆のもとに戻りました。アー怖かった、しかしこんな結末は漫画の世界でしか有り得ないと心の中で思いました。

社長には通関が遅れた事情とその時の心理状態も含め事細かく説明すると、思いっきり笑われました。

それから私達は7日間、友人の案内でダートレースを見学したり、ヘリコプターに乗ったりオーストラリアを満喫し帰国するわけですが、飛行機が離陸する時、会社がプレゼントしてくれた海外旅行はこれで2回目になるが、次も行ける様に頑張ろうと思ったのは私だけではなく、段々遠ざかっていくオーストラリア大陸を機上から見ながら、全員が同じような思いをしているように見えました。

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日本に帰ってから余韻に浸っている間もなく、Z1000Jを仕上げる為”Sメカニックグループ”はエンジンチューニングを、”Kメカニックグループ”は車体周りを手がけ、出荷予定日に向け動き始めました。

だが全てそれだけに集中するわけには行きません。量産はもちろん、オートバイの甲子園”4時間耐久”に標準を合わせZEROアルミフレームも製作しなければなりませんが、皆何事もなかったように黙々と仕事をこなし、予定通りZ1000Jは南アフリカへ輸出されていきました。さあこれで一安心と一服する暇もなく、「南アフリカから第一戦だけで良いから現地に来て欲しい」とテレックスが来ました。

人選の段階でSメカニックは直ぐ決定しましたが、もう一人が決まりません。車体関係のKメカニックだろうと思っていたら、何故か私に決まってしまいました。何しろ当時南アまでの航空運賃は片道100万もするものですから、英語が出来ない私が行っても何の役に立つのだろうか?不安だらけの私に、語学力が無いから悩んでいると勘違いした社長は「50単語も覚えておけば何とかなるから」と言うので、慌てて30単語位覚え、目的が見えない出張という不安を抱きながら、5月1日、私より英語が出来る頼みの綱のS君とアフリカに旅立ちました。


2011年12月 8日 (木)

黄金時代の到来 パートⅢ

日本GPも終わり、シーズンオフの中一層の飛躍に向けてトレーニングを重ねている4名の姿を遠くから羨ましそうにながめているA級ライダーがいた。しばらく様子を見ていたA級ライダー樋渡はある日私の所に来て、「僕は来シーズンTZ250で走るつもりだが2ストロークでも問題無いなら是非クラブに入会したい。」と相談に来た。私は2ストロークだから不安でしたが社長に相談すると以外にも直ぐOKが出ました。

あまりにあっけなかったので首を傾げていると、「来年は宮城にFⅢマシンと2ストロークマシンも乗せる計画をしている。モリワキもTZ250を買うから1台手配してくれ。樋渡君にはとりあえず1年間TZ250で走ってもらうから。」と言われました。

樋渡君にはその旨伝え、了解してもらいました。

その頃からモリワキも色々な製品が充実し始め、売上も少しずつ上がり、私達の士気も段々上がっていきました。

その年の10月、日本の大手商社から1本の電話が入り、「外国の取引先でモリワキのチューニング技術に大変関心を持っていて、カワサキZ1000Jというオートバイをチューニングして欲しい。」と問い合わせが有り、可能かどうか聞いて欲しいと言ってきました。

カワサキZ1000Jは今年から走らせている車輌だから、直ぐ社長に相談しました。社長と私は1台仕上げるだけと思い軽く返事をすると、担当者から「30台以上お願いする計画ですが」と言われた私は慌てて「車輌の手配はどうするのか?」と聞くと、さすが商社だけ有って「私共の会社がこの単車の輸出を担当させていただいているから大丈夫です。」と言われた。しかし技術的な事は分からないので、一度打ち合わせに行って欲しいといわれ社長と私が車輌の仕入先まで行くことになりました。最寄りの駅から名古屋へ行き、そこから新幹線に乗るわけですが、二人とも車は乗り慣れているが電車は苦手です。

従って、指定席券なんか買う考えも無く、自由席に乗りました。

自由席は大変混雑していて座る席なんかありません。すると社長はぐんぐん歩いて行き、ガラガラに空いた車輌まで来ると「ここに座ろう」と言って座ったのは良いのですが、「社長ここはまずいですよ」と言ったが、「良いから」と言うので私も座りました。車掌が来て追加料金を払い、これで手続き完了ですが、何か落着かない私でした。車輌仕入先との打ち合わせも終わり、これから完成出荷までは大変なスケジュールになるなと思いながら帰路に着きました。

次の日、出張精算をしてから社長と車両の納入日から完成までのスケジュールの打合せをしているところに南海子マネージャーが飛び込んできて、「このグリーン車は何なの?」と二人は詰問されたが私は何も反論できず、社長に助けを求めるように顔を向けても確信犯の社長はニヤリと笑うだけで何も助けてくれず、私はひたすら頭をかくばかりでした。

私はその後トラウマになり、グリーン車に乗ったのは17年後に一回乗っただけです。いろいろなことがあったチューニング依頼でしたが、首を長くして待っていたZ1000Jの車輌が届いたのは12月末でした。

年明けからエンジンを下ろす作業を始める訳ですが、それだけでも大変な作業です。また、今年の正月明けは会社が日頃から一生懸命働いてくれている社員に感謝という意味で、オーストラリアへ慰安旅行の日程を組んでくれていました。

明けて1月10日、私達は会社からプレゼントされたオーストラリア旅行に旅立ました。機上では皆さん仕事を忘れ大いに楽しんでいますが、私には一つ憂鬱な問題があったのです。目的地に着くまで私が幹事をやるはめになってしまったのです。しかもダイレクト便ではなく、シンガポールで乗り換えなくてはなりません。私の憂鬱とは関係なく、飛行機はシンガポールに到着しました。

暫らく待機しているとシドニーに向けの出発アナウスが流れ始めました。

すると、突然社長がチケットとパスポートを私に渡し、皆にも渡すように目配せをしました。私は20名近くのチケットを持たされたのだが、何をどうしたら良いのか分からずオロオロしていると、社長が指をカウンターの方向に向けたので意味も分からず並びました。並んでいる間に前の人が何をしているのか見ていると、ボーディングパスをしているみたいなので、前の人のやりとりを見て同じようにしました。するとカウンターの女性は英語でペラペラ話してくるので、居直った私は「拙者とこの者達はシドニーまで出向くので切符を所望したいがいかがでござるか?」と言うと、相手の人もそんな言葉には全く耳を傾けず、淡々と手続きを進め無事完了しました。

そのやりとりを聞いていた日本人男性に「僕初めての海外出張ですけど、あの人日本語通じているんですか?」と聞かれたので、「通じてないと思うよ。」と言うと、「さっき日本語で話していたではないですか」と半ば逆切れのように言ってきたので、ニヤリと笑い、「言葉はここでしゃべるのだよ」と胸を押さえて列から離れました。皆にパスポートを戻し、飛行機に乗りエンジン音が高くなったところで急にアイドリング状態になり、その後この飛行機から降りてくださいと指示がありました。降りる時私の席には密かに目印をしてから降りました。

再び乗り込み、席の目印を確認したがそれらしき目印は発見出来ず、別の飛行機に変わったらしい。離陸してから一度メルボルンに着陸した後、目的地のシドニーまで何のトラブルも無く到着しました。

空港で荷物が出てくるのを待っていると、麻薬犬が誰かのスーツケースをかじっていました。回りを見渡すと、青い顔をした気品溢れる初老の婦人が連行されていきました。

私は何か怖いものを見た感じで、オドオドし入国手続きを済ませようとしていると、突然背後から「Mr. HARA?」と声をかけられた後、二人の大柄な税関職員に連れられ部屋に通されました。

何か悪いことでもしたのかな?外国で捕まったらどうなってしまうんだろうか?日本に再び帰る事が出来ないのでは?

それよりも当面の問題は、何を質問されても全く言葉が理解出来ないし、反論も出来ないし、困ったなと悩んでいる私でした。それにしても、つい先程シンガポールで他人に言葉は心だと見栄を張ったあの時の元気はどうしちゃったのでしょうか。


2011年12月 3日 (土)

黄金時代の到来 パートⅡ

宮城光選手に「1年経ったら来なさい」と言った私でしたが、次の日社長に「サンデーレースの結果を話している時、面白そうなライダーがいました」と話したら興味深く聞いてくれました。

明けて、1982年第1戦全日本ロードレース選手権が開幕しました。

ノービスF-Ⅲクラスには、オリジナルフレームにチューニングを施されたFX400のエンジンを積んだモリワキフレームのデビューレースだった。モリワキZERO FX400と命名されたニューマシンを駆った「福本忠」選手がプレッシャーに打ち勝ち、優勝を果たした。同じレースで以前社長に話をしていた「宮城光」選手も、CBX400でSS400クラスにエントリーしていたので、昨年の事を思い出し、「あのライダーが宮城君です」と伝え、走りのチェックをお願いしました。

宮城選手のレース結果は、確か前半3位を走っていたが、結果は5位だったと思います。後で社長に宮城選手の印象を聞くと、「今年の四時間耐久レースで、福本とペアを組めるように話をしてくれ」と指示を受けました。

「一年経ったら来なさい」と言ってから半年も経たない間に、始からクラブ員ではなくレーシングの一員として入校しました。

4時間耐久レースに、レーシングから1台、クラブチームから1台出場の予定ですが、クラブチームから出場するM選手のメンバーが見つかりません。M選手から相談を受けてライダー探しをしていると、灯台下暗し、そのもので私の身近なところにライダーがいました。モリワキの協力会社で、仕事をしながらTZ250でレース活動を始めていた「八代」選手を紹介し2台体制でレースに臨んだが、結果は2台ともエンジントラブルでリタイアでした。台風が接近する中でも、土曜日の4時間耐久レース本番は晴れていて、台風が接近して来ているような雰囲気はまったくなかった。8耐当日、台風はジワジワと鈴鹿に向かって来ていて、すでに雨と風が出てきていた。スタートする頃は暴風圏内に入り始め、ライダーは走るのが精一杯で競争しているという感覚ではなかった。7月末というのに夏とは思えず、私達は寒くて耐えられなくなり、会社から売り物の冬物ジャンパーをあるだけ用意し、モリワキレーシングはもちろん、POPさんを始めヨシムラチームスタッフ全員に渡しました。そんな時ヨシムラのライダー「デビットアルダナ」選手がストレートで転倒し、私達が見ている目の前を回転しながら滑っていく単車を後ろに従え、本人は背中とお尻をうまく使いながら滑っていきました。

ますます台風が近くなり、レースよりもお客さんが帰る道路とか、交通機関に支障をきたし始めたので、主催者はやむなく6時間に短縮する事を決定し、コース内ではレース実況よりも道路情報アナウスの方が多かった耐久レースでした。

4時間耐久をリタイアに終わった4名の生徒達は、レースを始めたのも年齢も似通っており、とてもライバル意識が強く互いに闘志をむき出し急成長していきました。ついにそれぞれの実力を試す時が来ました。その年の最終戦日本GPを迎え、クラブ員のM選手は自分のFX400改で宮城選手は、ZERO-FX400を選択し、同じく福本選手も乗りなれたZERO-FX400、一方クラブからレーシングに昇格した八代選手は、新しく出来上がって間もないZERO-CBX400に乗る事になった。本番レースが近づくに連れ、モリワキワークスマシンに乗れる事になった八代選手は緊張の為か?毎回のように転倒してしまい、その都度夜遅くまで修理しているメカニックに、申し訳ない気持ちが一杯で何かしたいのだが、本人は手伝う事も出来ず、ひたすらメカニックの作業が終わるのを待っているのが、本人の出来る誠意でした。そんな事が何回も続き、本人は自信も無くなり、精神的にも落ち込んでいってしまいました。そんな中にあって、土曜日の公式予選でも転倒してしまい、ますます落ち込んでいく姿を見ていた社長は、私を呼び「今晩中に八代と話をしてくれ。あんな状態ではまともに走れないから」と頼まれました。仕事が終わってから八代選手を呼び、一言社長のメッセージを伝えました。

そのメッセージとは、「転倒してからの八代は、メカニックに気を遣いすぎて硬くなっている。とにかく何回転倒しても気にするな。俺が転倒しても良いと言っているんだから。しかし、転倒してマシンはどんなに壊れても良いが、怪我だけはするな」とのメッセージを伝えると、落ち込んでいた顔が少し明るくなると同時に、目がうっすらと潤んでいるように見えました。

明けて決勝当日、精神的に持ち直した八代選手は、本来の実力を取り戻し、並みいる強豪を押さえて見事優勝を飾り悔しがる宮城/福本両ライバルをしり目に、表彰台の一番高い所に陣取り、ふと祝福してくれている人達を見ると、優しい目をしてニコニコ微笑んでいる社長の姿を見た瞬間、思わず涙があふれ出てしまいました。自分が気落ちし苦しんでいた時、優しいメッセージを送ってくれた社長に対する感謝の気持ちが、涙という形になって表れたのだろう。

表彰台に上がった3人のライダーの写真を撮っていた雑誌記者は、フイルムに納められた八代選手の涙を流している姿を見て、ニックネームを泣き虫ハッチと命名したそうです。


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