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2011年12月28日 (水)

黄金時代の到来 パートⅥ

サーキットに来てもクロスビーが何処にいるのかわからない。

ピットを歩いていると、日本人メカニックのF君が一生懸命マシン整備をしていたのでクロスビーの居場所を聞いたが、忙しさのあまり丁寧に答えてくれなかった。恨みに思った私は、日本に帰って来たF君と酒を飲むたび厭味を言っていじめました。ホンダNR500で出場している片山選手に聞き、やっとクロスビーに会うことが出来、一安心です。その夜からクロスビーのモーターホームで久しぶりにぐっすり眠りました。さあやっとGP見学が出来るわけですが、入場券とかパドックパスとか何もありません。しかしやはりいい加減なクロスビーですから、自分の首からかけていたライダーパスを私に渡し、これを使えと言いました。

私は不安ながらもそのパスであちこち行き、色々なゲートでクロスビーの写真入りパスを提示しても明らかに本人とは違うのにも関わらず、何処へでも通してくれました。レースはケニーロバーツが優勝、2位はスズキのウンチーニ、3位クロスビーで、ヤマハの1着3着でした。その夜、マルボーロチームスタッフとレストランで食事をした後、私は眠りにつきました。しかしクロスビーは何時ものように夜遅くまで大暴れをしたのですが、ワインを飲みすぎた為か次の日は二日酔いで、とても運転出来る状態では有りません。奥さんのブレンダと相談の結果、私がトランスポーターを運転しイギリスに戻ることになりました。

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一方その頃、イギリスに居残っているS君のもとへ、会社から急きょ日本に戻るようテレックスが届いたのですが、問題はすでに戻ってきているはずの私から何の連絡も無い為、すぐ日本に戻れないと焦ったS君は、「会社に原さんフランスで行方不明。いまだ連絡無し。」とテレックスを打ったらしいが、その頃すでにロンドンにおり、クロスビーの古巣・スズキUKに居ました。S君に心配かけてはいけないと思い、スズキUKのスタッフに「私は今スズキUKに居るから心配しないようにと連絡して下さい」と言ったら、気持ちよく引き受けてくれたので安心していました。しかし、忘れられたのか?通じなかったのか?私からの連絡が途絶えているS君は、ついに一人で帰国する決意をして、私が戻ったらこのチケットを渡すよう指示し、空港に向かう準備をしていました。たっぷりロンドン見学をした私はS君の仕事場に戻るとすでにホテルは引き払ったらしく、事務所に私の荷物と置き手紙がありました。

S君の手紙で全て現状を理解した私は、すでにS君は空港に向かっていると解釈し、ヒースロー空港まで1時間は走らなければならない、とても間に合わない、と焦っていると、帰国の準備を終えたS君が両手に荷物を持って歩いて来ました。

私の顔を見たS君は、文句を言う事もなく笑顔でむかえてくれました。二人はスタッフの運転する車に乗り込み一路空港に向かったのですが、ヒースローではなくもっと近い別の空港でした。

1ヶ月ぶりで日本に戻り、帰国命令が出た理由を聞き、次の日社長と私はその理由であるプロジェクトの説明を聞くため、また悪夢の新幹線に乗らなければならないのですが、前科がある私達のため事前に用意されていた切符は、グリーン車ではなく当然一般の指定席券でした。

帰国してから私は一ヶ月間の穴を埋める為、一生懸命働き、大いに遊びました。

その年の6月、社長と私は月刊プレイボーイ取材の為、モリワキMONSTERをハイエースに積み込み、取材場所である筑波サーキットへ向かいました。

撮影現場のカメラマンは何時もテレビに出てくる有名なK写真家でした。

撮影は夕方まで続きました。私は月刊プレイボーイ編集担当のM氏(後にモリワキクラブ員となり4時間耐久を走った)と話をしている時、偶然宮城選手の話題になり、「宮城には大変注目している。これから追っていく価値がある。」と熱く語っているM氏を見ながら、もうすでに注目している人達が居ること自体大変興味を持ちました。

さあ、いよいよ4時間耐久レースが迫ってきました。まあエントリー台数の凄い事。1グループ50台で8組~9組くらいあり、予選時間は20分しかない為、後ろに並んでしまったら3周の義務周回数にも満たない状況です。

そんな厳しい環境の中で、アルミフレームを手にしたモリワキレーシングの宮城・福本組は自信満々です。さて、いよいよ予選が始まりました。しかし優勝候補筆頭の宮城選手の乗ったマシンは、エンジン不調でなかなかタイムが上がりません。このままでは予選落ち、という屈辱をあじわうことになりかねない。しかし結果は絶対あってはならない事態にまで追い込まれました。

後は福本選手に託すしかないのだが、肝心のエンジン不調のままで快復の見込みがたたない。すべてを託された福本選手は不調のエンジンをだましながら何とか予選を通過する事が出来た。メカニックはすぐ工場に戻り、エンジンのオーバーホールに取り掛かったが、原因が見つからない。

エンジンベンチでも全く問題が出ない。しかしフレームに乗せると回らなくなる。さて原因は何か? 

今年はこれで終わりにします。来年また一生懸命思い出しながら書くからよろしく。
でも私は当時を思い出すため資料とかは一切見ていません。記憶だけです。だから時々おかしい事があるかも。でも許してね。


2011年12月23日 (金)

黄金時代の到来 パートⅤ

会社は長いフライトで疲れないようにと気を遣っていただいたのか、ビジネスクラスをとってくれていました。離陸後、食事もキャンセルするくらいグッスリ寝てしまい、目が覚めた頃皆が寝る時間となり、機内は暗く私だけが起きているという変な状況でした。

長かったフライトでしたが、ヨハネスブルグに到着し、空港では△×SAという会社のバリーGMが出迎えてくれ、ホテルまで送っていただきました。

その夜歓迎パーティーをしていただいたのですが、私もS君も鶏肉が大嫌いなのに、恐れていた通りやはり料理は鶏肉ばかりでした。

次の日から二人は△×SAに行き、S君はマシン整備を行い、私は?
目的が分からず来てしまったので、バリーGMと通訳を介しビジネスの話を行い、空いた時間に違うメーカーの代理店でミ△□コーという会社から大量のピストンキットとマフラーの注文を頂き、多少は来て役に立ったのかな?
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でもそんなに仕事があるわけでもなくフラフラしていると、バリーさんが「これから練習に行くから一緒に来てくれないか」という事になったのですが、何しろ言葉が「?」しかし蓋を開いて出てくる言葉は殆んどオートバイ用語だったので、助かりました。サーキットに向かう途中、田舎のガソリンスタンドに立ち寄ったのですが、ガソリンスタンドには長い行列が出来、何事だろうと見ているとタバコの一本売りをしていました。

頭では分かっていたつもりでも、現実を目の当たりにした私は、車中で南アの実態を話してもらいました。

黒人はどんな立派な学校を出ても良い仕事には就けない。また居住区も分かれていて、通勤バスもレストランも更にトイレも違うし、それとアジア人も黒人と同じ扱いだと聞いた。しかし日本人は名誉白人で、“普通の生活は白人待遇だが、結婚は出来ない”と言う話を聞き、滞在1週間であるがこの国の実態を垣間見ました。

サーキットに到着したらすでに練習していて、暫らくすると私の所に焼けたプラグを持ってきて、「M/Jは何番が良いか?」と聞いてきたので、いい加減に「5番上げるように」と言うと、あれあれ調子がよくなり、レコードタイムが出たらしい。皆さんご機嫌で会社に戻りました。

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私は会社で作業をしていたS君と合流し、二人で食事に行きました。私より英語が出来るS君はメニューを見て、“○○クラブ”と書いてあるから蟹だ。2人は問答無用で注文しました。最初に出てきたのは太刀魚をうなぎのように丸くしたような魚が出てきました。もう直ぐ蟹が出てくるぞ。しかし最初に出て来た料理以外は出てきません。二人ともその魚に手をつけないので、ボーイが来て「何故手をつけないのだ。とても美味しいよ。」と言うので、「蟹はまだ?」と聞くと、「エッ蟹?メニューにはないし。アッそうか、君たちが注文したのはこれだよ。これは“○○クラブ”と言うんだよ。」と言われた時の二人のショックは大変なものでした。

そんな事もあったりしたが、もう一週間経ち、今日は休日です。S君は南アが発祥地のコーヒーミーティング(単車で各方面から自然発生的に集まり、コーヒーを飲みながら単車の話をする)に参加し、帰ってきた時印象を聞くと、元ロードレースチャンピオンのS君でも付いていくのが精一杯だったと語っていました。理解ある国で、コーヒーミーティングがある午前中は取り締まりが無く、2台一組で0~400mを警官がいる前でも平気でやるそうです。しかし12時00分からは厳しく取り締まるそうです。

そんなこんなであっという間に週末になり、レースの為S君とキャラミサーキットへ向かいました。日本からモリワキが来ているということで、かなりの人にサインを求められました。3台エントリーしたレース結果は、確か1着と3着だったと思います。

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優勝祝賀会の次の日二人は急いで身支度し、次の目的地イギリスに向かいました。S君とはロンドンで3日間一緒でしたが、彼はイギリスに残り、私はフランスのポールリカールサーキットへ世界GP見学ではなく、ヤマハワークスで走っているGクロスビーに会う為、フランスに向かいました。もともと英語が出来ないのだから、フランス語でもイタリア語でも何でも来いという気持ちでしたが、ドーバー海峡をフェリーで渡る時、修学旅行らしき小学生が何語か分からないが蛍の光を歌っているのを聞いて、急に寂しくなってきました。フランスに入り、通関職員に「君は英語?フランス語?どちらが得意?」と聞かれたので「日本語だ」と答えると、フランス語で「アンドツルーメルシー」とかしゃべるので、「何を言っているのかわからねーよ」とブツブツ言っていたら、バックの中まで開けられた。

それからどのくらい走っただろうか?かなり走ったからそろそろ目的地まで着くだろうと場所を確認したら、まだパリまで行っていなかった。果てしなく続く道路を目的地までの時間が見えてこない不安を抱えながらひたすら走り、何回ガソリンを入れただろうか?もう目的地に来ただろう、と高速道路を下りたところに有った一軒の自動車屋さんの主人に「ポールリカールサーキットはどこか」と道を尋ねると、私の帽子を見て「貴方はカワサキ?」と聞くので、「そうだそうだ」と答えると、「右に曲がって次は○×で」と説明を受け、やっとクロスビーに会えると安心し、教えられた道を忠実に守り、やっと着いたところは普通のカワサキ販売店だった。

言葉が通じなかった事より、目的地が見えない旅に段々不安が高まり、まわりの山々は日本の山とは景色が違い、異国の地ということが痛いほど身にしみました。もしサーキットにたどり着けなかったらどうなってしまうのだろうか?不安と心細さの為か自然に涙があふれ出てきました。

どのくらい走っただろうか?ガソリンスタンドを見ると、レース見学らしきオートバイの集団がいたので、不安の頂点に達していた私はライダーのTシャツを力一杯掴まえ上半身を後ろにのけ反らせるようにして「サーキットは何処や?」と聞いたら、「ブデビデバブ」と言いながら指を差しました。指の方向を見ると、“ようこそポールリカールサーキットへ”と書いてありました。すでにそこはサーキット内でした。


2011年12月15日 (木)

黄金時代の到来 パートⅣ

別室に入れられ、これから何が起きるのか分からずうつむいて待っていました。

先程一緒に来た大柄な税関職員も、私を部屋まで案内すると、そのまま出て行ってしまい、部屋には私しかいません。

そっとドアを開けたら、幸い鍵がかかっていなかったので逃げ出そうと思ったが、未だ入国手続きが済んでいない為外に飛び出す事も不可能で、絶体絶命な状況に追い込まれました。

私はてっきり「この国で禁止されている物を持ち込んで捕まってしまったのかな?正露丸?梅干?そんな物で捕まるのかな?旅行会社はそんな事言ってなかったし。それとも成田で誰かにコッソリ危険なものを入れられたのかな?でも麻薬犬が何も反応しなかったけど…」 といろいろなことを考えてしまいました。どの位時間が経過したでしょうか?

日本国の警察署長みたいな立派なバッチをつけた人が、部下らしき人を2名引き連れて部屋に入ってきました。

絶体絶命の私は心の中では居直ったつもりでしたが、態度は借りてきた猫みたいにおとなしくなっていました。

一番上司と思われる人は、部下を背後に立たせ一歩前に進み出ると、私に向かって最大級の笑顔を振り向け、グローブみたいに大きく分厚い右手を差し出し、痛いくらい私の手を握り締め、「ようこそオーストラリアへ。日本も大変美しい国ですが、自国も自然豊かなとても美しい国です。一週間という短い期間ですが、十二分にオーストラリアを堪能して下さい。」と言っているらしいのですが、先程まで悪い事ばかり想像していた為、何を言っているのか理解できなかったが、私に対して怒っていないことだけは理解出来ました。怒られていない事に安心した私は、「何故自分を呼んだのですか?」と知っている単語は全て使い切り、さらに手振り身振りを加え話すと、「貴方が幹事だとお聞きしたので代表で来て頂きました。」と言われたように解釈した私は、少し前の出来事を思い出しました。

後輩が通関でインスタントラーメンの粉末スープまで開けられていたとき、幹事は誰だと聞かれ、その時私の方に指を差していた事を思い出しました。

それにしてもこの国では毎回こんな歓迎をするのかと聞きたかったが、さっきすべての単語を使い切ってしまった私は質問することも出来ずに沈黙していると、私の心を読んだ部下は、「旅行会社のツアー団体ではなく独自で20人近くの観光客が来て頂いたのだから、特別歓迎しました。」と言ったように思いましたが、何を言っていたか本当の事は分かりません。

やっと解放された私は、野次馬的興味深さで心配?している皆のもとに戻りました。アー怖かった、しかしこんな結末は漫画の世界でしか有り得ないと心の中で思いました。

社長には通関が遅れた事情とその時の心理状態も含め事細かく説明すると、思いっきり笑われました。

それから私達は7日間、友人の案内でダートレースを見学したり、ヘリコプターに乗ったりオーストラリアを満喫し帰国するわけですが、飛行機が離陸する時、会社がプレゼントしてくれた海外旅行はこれで2回目になるが、次も行ける様に頑張ろうと思ったのは私だけではなく、段々遠ざかっていくオーストラリア大陸を機上から見ながら、全員が同じような思いをしているように見えました。

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日本に帰ってから余韻に浸っている間もなく、Z1000Jを仕上げる為”Sメカニックグループ”はエンジンチューニングを、”Kメカニックグループ”は車体周りを手がけ、出荷予定日に向け動き始めました。

だが全てそれだけに集中するわけには行きません。量産はもちろん、オートバイの甲子園”4時間耐久”に標準を合わせZEROアルミフレームも製作しなければなりませんが、皆何事もなかったように黙々と仕事をこなし、予定通りZ1000Jは南アフリカへ輸出されていきました。さあこれで一安心と一服する暇もなく、「南アフリカから第一戦だけで良いから現地に来て欲しい」とテレックスが来ました。

人選の段階でSメカニックは直ぐ決定しましたが、もう一人が決まりません。車体関係のKメカニックだろうと思っていたら、何故か私に決まってしまいました。何しろ当時南アまでの航空運賃は片道100万もするものですから、英語が出来ない私が行っても何の役に立つのだろうか?不安だらけの私に、語学力が無いから悩んでいると勘違いした社長は「50単語も覚えておけば何とかなるから」と言うので、慌てて30単語位覚え、目的が見えない出張という不安を抱きながら、5月1日、私より英語が出来る頼みの綱のS君とアフリカに旅立ちました。


2011年12月 8日 (木)

黄金時代の到来 パートⅢ

日本GPも終わり、シーズンオフの中一層の飛躍に向けてトレーニングを重ねている4名の姿を遠くから羨ましそうにながめているA級ライダーがいた。しばらく様子を見ていたA級ライダー樋渡はある日私の所に来て、「僕は来シーズンTZ250で走るつもりだが2ストロークでも問題無いなら是非クラブに入会したい。」と相談に来た。私は2ストロークだから不安でしたが社長に相談すると以外にも直ぐOKが出ました。

あまりにあっけなかったので首を傾げていると、「来年は宮城にFⅢマシンと2ストロークマシンも乗せる計画をしている。モリワキもTZ250を買うから1台手配してくれ。樋渡君にはとりあえず1年間TZ250で走ってもらうから。」と言われました。

樋渡君にはその旨伝え、了解してもらいました。

その頃からモリワキも色々な製品が充実し始め、売上も少しずつ上がり、私達の士気も段々上がっていきました。

その年の10月、日本の大手商社から1本の電話が入り、「外国の取引先でモリワキのチューニング技術に大変関心を持っていて、カワサキZ1000Jというオートバイをチューニングして欲しい。」と問い合わせが有り、可能かどうか聞いて欲しいと言ってきました。

カワサキZ1000Jは今年から走らせている車輌だから、直ぐ社長に相談しました。社長と私は1台仕上げるだけと思い軽く返事をすると、担当者から「30台以上お願いする計画ですが」と言われた私は慌てて「車輌の手配はどうするのか?」と聞くと、さすが商社だけ有って「私共の会社がこの単車の輸出を担当させていただいているから大丈夫です。」と言われた。しかし技術的な事は分からないので、一度打ち合わせに行って欲しいといわれ社長と私が車輌の仕入先まで行くことになりました。最寄りの駅から名古屋へ行き、そこから新幹線に乗るわけですが、二人とも車は乗り慣れているが電車は苦手です。

従って、指定席券なんか買う考えも無く、自由席に乗りました。

自由席は大変混雑していて座る席なんかありません。すると社長はぐんぐん歩いて行き、ガラガラに空いた車輌まで来ると「ここに座ろう」と言って座ったのは良いのですが、「社長ここはまずいですよ」と言ったが、「良いから」と言うので私も座りました。車掌が来て追加料金を払い、これで手続き完了ですが、何か落着かない私でした。車輌仕入先との打ち合わせも終わり、これから完成出荷までは大変なスケジュールになるなと思いながら帰路に着きました。

次の日、出張精算をしてから社長と車両の納入日から完成までのスケジュールの打合せをしているところに南海子マネージャーが飛び込んできて、「このグリーン車は何なの?」と二人は詰問されたが私は何も反論できず、社長に助けを求めるように顔を向けても確信犯の社長はニヤリと笑うだけで何も助けてくれず、私はひたすら頭をかくばかりでした。

私はその後トラウマになり、グリーン車に乗ったのは17年後に一回乗っただけです。いろいろなことがあったチューニング依頼でしたが、首を長くして待っていたZ1000Jの車輌が届いたのは12月末でした。

年明けからエンジンを下ろす作業を始める訳ですが、それだけでも大変な作業です。また、今年の正月明けは会社が日頃から一生懸命働いてくれている社員に感謝という意味で、オーストラリアへ慰安旅行の日程を組んでくれていました。

明けて1月10日、私達は会社からプレゼントされたオーストラリア旅行に旅立ました。機上では皆さん仕事を忘れ大いに楽しんでいますが、私には一つ憂鬱な問題があったのです。目的地に着くまで私が幹事をやるはめになってしまったのです。しかもダイレクト便ではなく、シンガポールで乗り換えなくてはなりません。私の憂鬱とは関係なく、飛行機はシンガポールに到着しました。

暫らく待機しているとシドニーに向けの出発アナウスが流れ始めました。

すると、突然社長がチケットとパスポートを私に渡し、皆にも渡すように目配せをしました。私は20名近くのチケットを持たされたのだが、何をどうしたら良いのか分からずオロオロしていると、社長が指をカウンターの方向に向けたので意味も分からず並びました。並んでいる間に前の人が何をしているのか見ていると、ボーディングパスをしているみたいなので、前の人のやりとりを見て同じようにしました。するとカウンターの女性は英語でペラペラ話してくるので、居直った私は「拙者とこの者達はシドニーまで出向くので切符を所望したいがいかがでござるか?」と言うと、相手の人もそんな言葉には全く耳を傾けず、淡々と手続きを進め無事完了しました。

そのやりとりを聞いていた日本人男性に「僕初めての海外出張ですけど、あの人日本語通じているんですか?」と聞かれたので、「通じてないと思うよ。」と言うと、「さっき日本語で話していたではないですか」と半ば逆切れのように言ってきたので、ニヤリと笑い、「言葉はここでしゃべるのだよ」と胸を押さえて列から離れました。皆にパスポートを戻し、飛行機に乗りエンジン音が高くなったところで急にアイドリング状態になり、その後この飛行機から降りてくださいと指示がありました。降りる時私の席には密かに目印をしてから降りました。

再び乗り込み、席の目印を確認したがそれらしき目印は発見出来ず、別の飛行機に変わったらしい。離陸してから一度メルボルンに着陸した後、目的地のシドニーまで何のトラブルも無く到着しました。

空港で荷物が出てくるのを待っていると、麻薬犬が誰かのスーツケースをかじっていました。回りを見渡すと、青い顔をした気品溢れる初老の婦人が連行されていきました。

私は何か怖いものを見た感じで、オドオドし入国手続きを済ませようとしていると、突然背後から「Mr. HARA?」と声をかけられた後、二人の大柄な税関職員に連れられ部屋に通されました。

何か悪いことでもしたのかな?外国で捕まったらどうなってしまうんだろうか?日本に再び帰る事が出来ないのでは?

それよりも当面の問題は、何を質問されても全く言葉が理解出来ないし、反論も出来ないし、困ったなと悩んでいる私でした。それにしても、つい先程シンガポールで他人に言葉は心だと見栄を張ったあの時の元気はどうしちゃったのでしょうか。


2011年11月23日 (水)

社長マジック

従来のコースレコードを大幅に塗り替えたガードナーは当然のように1コーナーに一番近い位置からのスタートとなったが、あまりにも戦前の予想とかけ離れたタイムだったため、メーカーチームを始め他のチームからはエンジンの排気量が違うのではないか?とか色々なうわさが飛び交った。我々はそんなくだらないうわさに反論する事も無く、着々と決勝に向けた準備にとりかかっている。

世界初のモリワキアルミフレームがもの凄いポテンシャルを秘めている事は、一部の専門家を除き、世間ではあまり知られていなかった。社長は以前から、新型アルミフレームのポテンシャルを多くの人達に証明出来る最大のチャンスは今度の8時間耐久レースの予選と決めていた。それを実証してくれたのが、無名ライダーワインガードナーのライディングだった。大メーカーより天才クロスビーよりも早く、しかも社長自身が予測したタイムで走り、モリワキアルミモンスターのポテンシャルを世界に実証出来た事が最大の喜びだった。

では何故ガードナーはあんなタイムで走れたのか?

今だから話せる社長マジックを披露しましょう。

ガードナーは走行が始まってから順調にタイムを上げて来てはいるが、ジョンペイスとのタイム差はあまりなく、平均ラップタイムではジョンペイスの方が速いタイムで走っている。クロスビーは別恪として、二人を総合すると他の何処のチームよりも速い平均タイムで走っているので、私は大いに満足し、社長に「二人とも順調に仕上がっていますね。この状態だとジョンペイスの方が乗れているから、スタートは彼にしましょうか?」と言うと、社長は自信たっぷりに、「ガードナーはこんなタイムでは走らないよ。クロスビーより速く走れるはずだ。クロスビーが一番焦るだろうな。土曜日は面白くなるぞ。まわりの人達は皆ビックリするだろうな。」とニコニコしながら私のほうに顔を向けたが、社長の言っている意味が全く理解できず、ポカーンと口を開いている私でした。
社長が言った言葉を考えながらコースに目を向けると、背中を丸めたガードナーがストレートなのに少し右側に腰を落とすようにして通過していきました。ラップタイムを見ても何も変わらず安定したタイムだったので、社長が言っている事がますます理解できなくなってしまいました。
すっかり考え込んでしまった私を見て、社長はある秘策を教えてくれました。

社長の秘策を聞いた私はストレートを通過して行くガードナーのマシンに目を凝らしてみていると、社長が教えてくれた通り私にもハッキリと解りました。

その社長マジックとは?


2011年11月22日 (火)

1981年の印象深い出来事パート2

30年も前の記憶を思い出しながら書いたのですが、あの頃の忘年会は毎年あんな状態ですので、若干前後している可能性があります。ブログを見たY君とかS君が、この事は次の年だったとかそれより前の年だったとか思うかもわかりませんが、間違っていたからって地球がひっくり返る様な事でもないので、ご容赦願います。

さあこれで当分ブログをサボろうと思い朝出社すると、私が退社した後置いたのであろう昔の写真がどっさりと積んであるではないか。

誰が私の机に置いたんだ。出したらきちんと戻しておけとブツブツ言いながら隣の机に置いて席を離れ、工場と打合せをすませた後席に戻るとまた写真が置いてあるので、これは続けて書けと言う無言の圧力かな?と思い、写真を見ながら当時の記憶を手繰り寄せ書きます。

前回ブログの忘年会を書いた年は1981年で、その年の耐久レースはワインガードナー選手がコースレコードを樹立した年でした。

モリワキのホームページを見ている人達は充分知っている人達ですから、あまり詳しいレースレポートみたいなことは書きません。しかし、私が現場で見て感じたことを書きます。6月のスズカ200kmロードレースには、今回8H耐久レースを戦うワインガードナーとジョンペイスがエントリーし、結果は左足首を骨折していたワインガードナーが優勝。ジョンペイスは3位と順調なすべりだしをしたわけですが、未だ安心は出来なかった。敵はヨシムラのクロスビーとクーリーが、最大のライバルになると予測していた。

耐久ウイークに入り、段々緊張が高まりつつもメカニック達は淡々と作業をこなしています。そんな中、オーストラリアからガードナーとペイスの応援ツアーで、総勢20名余りが鈴鹿に到着しました。モリワキとしては、せっかく来た応援団を鈴鹿だけではなく少しでも日本という国を知ってもらいたいと、京都見学に連れて行く事にしました。行く前に一番何がしたい?と聞くと、座禅を体験したいと言うリクエストが圧倒的だったので、知人の坊さんに紹介していただき、京都に向かいました。

当たり障りの無い見学コースを順調に消化して行き、午後1時から最大のイベント、座禅の開始です。皆さん初めての体験で興奮し、さらに座禅を組むことが出来ず、一瞬騒がしくしてしまった。 すると、本来苦しい修行を積み重ね悟りを開いているはずの坊さんは、仏門に入った方とは思えないくらいぶち切れて、出て行けと怒りまくり退場させられました。

その時の坊さんはただ気の短い普通のおじさんみたいだった。やはり苦行を積んでも腹は立つんだと、その時私の方が坊さんより先に悟りました。でも相手は異国から少しでも日本の文化伝統に触れようと来た人達ではないですか?始めから規則も何も解らない人達を迎え入れる事を許可したのだから、もっと御仏の心で望んで欲しかったね。

私はせっかくの観光に水を差されたような気分になったが、外人さんは禅を体験したごとく無我になり、日帰り観光を楽しんでいた。

夕方会社に戻ると今日の走行が終わり、明日の走行準備の為皆忙しく働いていました。

バーベキューの用意が出来たとマイクで放送されると、何処からとも無くゾロゾロと皆さん集まって来ましたが、おや?我がモリワキスタッフは何処にいるのかわからない。そのくらい多くの人が集まって来ています。最後の焼きそばが全員に行き渡った頃クロスビーが私の所に来て、ライダー全員飲みに行くからと言い残し、未だ会話を楽しんでいる集団の中に入っていきました。

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その夜、外人で貸しきり状態になったスナックでは野球拳が始まり、殆んど全裸に近い状態になってしまったのが、優勝候補の○×選手だった。

殆んどの有力ライダーが参加した宴会も終わり、次の日は練習です。

朝若干寝不足気味のライダー達だが、練習が始まるとさすが皆プロライダーだけあり順調にタイムを上げています。

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その中にあって、モリワキとヨシムラの仕上がり状態は絶好調です。

POP吉村さんも、ガードナーやクーリーと談笑したり、社長と南海子マネージャーも余裕で昔からの友人に冗談を言い合うなど、両監督は笑みが絶えません。

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さあ、いよいよ明日は予選だ。当然その夕方も皆でバーベキューを楽しんだ後、昨晩のメンバーは全員夜の街へ繰り出していきました。

明けて予選当日、夜の顔とは全く違う勝負師の顔つきになったライダー達は、次々とピットロードを出て行きました。我がチームはゼッケン15番のロジャーマーシャルがピットを出て行くと、後を追うように同じレーシングスーツに身を包んだゼッケン14番のガードナーが出て行きました。

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その日の私は、ピットロードでタイム計測をしていました。
同じ間隔で何周回っただろうか?あれ?最終コーナーを出てくる時のエンジン音が違う。

おかしい?目を凝らして見ると、ゼッケン15番ではなく、14番と見えるではないか。慌ててストップウォッチを押し、計測タイムを見ると14秒76とある。自信が無くなり、ピットの上で見ている社長を見やると、そのタイムは間違っていないよ。それとこの周でピットに入れるように。と目だけで会話をしました。

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隣のヨシムラピットに情報が伝わると、クロスビーは普段全く見せた事が無い程厳しい表情になり、本能的に湧き上がって来る闘争心を押さえることもせず、真っ赤に染まった顔を白いヘルメットで覆うと飛び出すようにピットを出て行きました。ガードナーは、もしクロスビーが自分のタイムを更新するようなら、僕はもう一度走ると言って、すでにヘルメットを手にしています。

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さあ計測が始まりました。ピットの上では社長がタイム計測しています。

区間タイムはガードナーを上回っている。私達はやられたと思いました。

しかしもう余り時間が無い。でもガードナーは再び出て行く準備をしている。

クロスビーはガードナーのタイムを更新しながら逆バンクを通過し、ダンロップブリッジの上がりきったところに差し掛かると、突然リヤタイヤがスライドして大きくタイムロスをしてしまい、万事休す。ガードナーはピットを出ることなく、安堵の表情でヘルメットを脱ぎました。

ピットに戻ってきた社長はガードナーとガッチリ固い握手を交わすと、二人の目から自然に涙があふれ出ていた。


2011年11月17日 (木)

そして二次会

宴会は終わったのだが誰一人部屋に戻る様子は無く、いくつかのグループに分かれ次は何処に行こうかとか話し合っている。

私が廊下に出ると新人3人組が互いに肩を抱き合い円陣を組むようにして泣いているではないか?

心配して近寄りかけたら突然3人入り乱れてケンカを始めたので、慌てて止めに入ろうとしたらまた肩を抱き合い泣き始め、お互い頑張ろうなと言いながらまた突然取っ組み合いになる始末です。

あまりにも不可解な光景なので興味深く見ていたら、K君達が飲みに行くからと誘うので私は3人組の方に向けて指を刺すと、K君達は3人組の異常な光景を見ても先輩として止める様子も無く、ニヤニヤ笑いながら「さあ行こうぜ」とホテル内のバーに向かいました。

バーの横にはダンスホールが有り、暗いホールでミラーボールのみが光を照らしています。

激しいリズムが流れる中、全くリズムに乗れない男性二人が髪の毛を振り乱し踊っている姿があまりにも面白いので目を凝らして見ると、あまり酒の飲めないN君とK君だった。あっちもこっちも何と言う後輩ばかりなんだろうと思いながらバーに入りました。

カウンターに座り飲み始めてから5分くらい経っただろうか?
Y君が息を切らせて飛び込んで来ました。

すでに宴会で酔いつぶれていた“Y君”を、二次会に誰も誘わず来たものだから一人気がつくと宴会場には誰もいない、色々探し回りやっと探し当てたようです。

Y君は身長185cm、体重100kg強とモリワキ1番の巨体です。無視されたと勘違いしたY君はとても機嫌が悪く、皆が座っているカウンターの後ろに来ると、席を譲ろうとして立ち上がった後輩に突然頭突きをかましたからたまりません。

頭突きをされた後輩も、誘わなかった事を詫び、やっとご機嫌が直ったY君が席に着くと、私はY君を一瞥し、いきなり帰るぞと声をかけ席を立ちました。

飲みかけたY君は、直ぐに席を立つことが出来ず、また一人取り残されました。

私とY君は、自他共に認める社内で一番仲の良いコンビですが、酔って後輩に暴力を振るったY君を許すことが出来なかった。

「気分転換に卓球をやろう」ということになり、娯楽施設に行くとすでに社長達がやっていました。

順番を待っていると、バーに一人取り残され、怒りと酒酔が重なり、赤鬼のような形相をしたY君が、まるでヒグマが威嚇するように両手を上げ、今にも飛びかかりそうな勢いで向かって来ました。それを後輩が、3人がかりで抑えているのだが、何せ体重100kg強が全開で突き進んでくるわけだからとても静止できません。私はS君に向かって「ホーあんな剣幕で突き進んできて誰を目標にしているのかな?」」と言うと、S君はすかさず「やっぱり原さんでしょう。一番悪いんだから」と言われたので、「私とは年中ケンカしているんだから、今日は違うでしょ。I君あたりがくさいと思うよ」と二人で笑っていると、Y君に飛ばされたり転んだりかなり騒がしくなってきたので、社長がK君に「どうした?」と聞いてからY君に向かって、「もうお前は部屋に帰って寝ろ!」と言うと、芸を覚えたてのサーカスの熊のように歩いてエレベーターに向かいました。しかし、エレベーターを待っている間に社長の言葉を忘れてしまい、覚えているのは怒りしか無く、また突撃しようとしたが、今度は5人に押さえられ部屋に戻されました。部屋に戻った付き添いの5人は、浴衣の紐でY君の手足を縛りあげ、酔いが醒めてきたY君が「トイレに行きたい」と哀願しても許してもらえなかったそうです(後日語ってくれたY君談)。

そんな2次会も終わり、朝が来て私は朝飯を食べていると、青白い顔をした連中がぞろぞろ食堂に集まってきた。しかし、二日酔いがひどくて朝飯を食べる事が出来ず、ジュースばかり飲んでいる後輩ばかりでした。新人3人組は「昨日の出来事は何だったの?」と思うくらい談笑しながら朝食をとっています。

普通の会社なら、朝食が終わるとここで解散するのが一般的だが、私達は未だ解散なんか致しません。これからキャンプに行くのです。今日は12月28日、明日から冬休みになるので気楽にキャンプが出来ます。今回は船で無人島に渡りキャンプをするのです。

野菜と調味料と水を積み込み出発です。○高丸という船ですが、とても年式が古く途中でバラバラになってしまいそうな船です。一回では全員渡る事が出来ないので、何回も往復します。先発隊は社長始め8名くらいでいざ出発です。

港を出るといつ壊れても不思議ではないくらいの船ですから大変で、昨日あんなに強気だったY君は青ざめて、「一人救命具を付けて大丈夫かな?」と事あるごとに私に話しかけてきます。社長は不安げなY君を見て不安が募るような冗談ばかり言うので、「最後は港で待っているから船を戻してくれ」と言い出す始末でした。

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無事無人島に上陸し、社長始め潜水組は手際良く準備しています。

陸組は、獲って来るだろう魚の料理の準備に取り掛かり始めました。

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この写真を見て12月末と思いますか?どう見ても冬の格好ではないですね。
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最初石鯛が上がってくると、次々と色々な魚が上がってきました。

オット大事件発生 4歳に満たない緑さんが何処にもいない。スワ誘拐か?

でもここは無人島だった。捜していると社長が「海から大きな声で大物が獲れたから取りに来い!」というので若手が行くと、魚ではなくびっしょり濡れた“緑さん”を拾って来ました(失礼)。原因は活発に動き回っているうち、足を滑らし、海に落ちて行ったらしい。そう言えば未だ歩けずハイハイしている頃、私が社長の自宅で業務報告をしていると、廊下をハイハイして来て飛び跳ねているバッタかスイッチョンかわからないが、いきなり捕まえて口の中に入れてしまうほど、“激しい”子供だったから、海に落ちても何ら不思議ではないですね。

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2011年11月16日 (水)

キャンプの話が出たので、もう一発

キャンプの話題が出たついでにもう一丁、以前のブログで「私はついに血を吐いた」と言うタイトルがあったと思いますが、その頃の話を思い出しました。

1981年頃の話です。あの頃、我々の忘年会は“大いに食べて、飲んで、歌って、暴れて、泣いて、1年間の垢を落とす”というのが恒例です。“飲んだり、食べたり、歌ったり”は、何処のホテルでも受け入れてくれるのですが、当時は平均年齢も24~25歳と若く、ファイトの塊みたいな連中ばかりですから、余りあるエネルギーを仕事だけでは消化できず、暴れたり泣いたりするものですから、そんな連中を毎年気持ちよく受け入れてくれる所は、尾鷲のホテルしか有りませんでした。

宴会場には6テーブルが用意されており、テーブルの上には刺身の舟盛を筆頭に、色々な魚料理とか寿司がテーブル一杯並べられ、更に一人一尾の伊勢海老も並んでいます。

4~5名が一組で、一つのテーブルに着席する訳ですが、さすが上座である社長のテーブルには誰も着席していません。

社長と南海子マネージャーが入って来て全員が各テーブルに着座しました。

社長のテーブルには私とS君とK君が座り、いよいよ宴会のスタートです。

先ず社長が立ち上がり、挨拶を始めました。全員に1年間の労をねぎらい、来年のテーマと目標を示しました。まだ素面の連中は、社長の挨拶を神妙な顔をして聞いていました。

私が乾杯の音頭をとると、他所のテーブルは堰を切ったようにぐいぐい飲み、パクパク食べ、とても会話を楽しんでいる雰囲気では御座いません。

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私達のテーブルは、舟盛も御寿司も始まる時とあまり景色は変わっていません。社長と会話を楽しみながら、ふと後ろを振り返ると、まさにテレビで見る外国のドキュメンタリー番組さながらに、蟻の大群がすべてを食べつくして移動して来る姿を想像してしまいました。

さあ、すべてを食べつくした蟻達は新天地を求め移動を始めようとしました。しかし、蟻達が目を付けた食料の豊富な大地は、いかに横着な蟻の大群とて足を踏み入れられるような場所では御座いません。狙った大地は社長と私達のテーブルです。

躊躇していた蟻は、考え抜いた末ビールを持ってお酌に来ました。

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社長を始め、テーブルに着座している全員にお酌を終えると、社長に恐る恐るお伺いを立てました。「社長、そこにある寿司を一つ頂いていいですか?」

「オーッ、良いよ好きなだけ食べなさい」と言われた事を聞きつけた別の蟻の大群は、我先にお銚子とかビール瓶を持って来ました。あっという間に他のテーブルと同じ景色になって行きました。

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腹がくちくなると、歌が得意なもの、即席芸が得意なものが舞台に上がり、芸を始めます。一芸が終わり、舞台から降りた者は、慰労の意味を込め?皆に酒をすすめられ、酔いつぶれていく者も出始めると、南海子マネージャーは未だ4才に満たない緑さん姉妹を寝かしつけに行こうとするのですが、「もっとお兄ちゃん達と遊びたい」と駄々をこねる姉妹を強引に連れて行かなければならないのには理由があるからです。もう少し酔ってくると必ず出る芸が子供にはあまりにも強烈だからです。

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はしゃぎ過ぎたのか、床につくとすぐ寝ていったみたいで、南海子マネージャーは直ぐ戻ってきました。さあいよいよメインイベント、先輩芸の始まりです。

入社歴3年生以上全員が舞台に上がり一礼すると、すでに南海子マネージャーは涙を流しながら笑っています。これから始まるであろう芸を思い出し、笑ってしまっているようです。しかし、新人は何の事かさっぱりわからず、舞台と南海子マネージャーを交互に見ながら不思議な顔をしています。

私が「ただ今から、会社創立以来伝えられてきた祭事を始めます」と声を張り上げると、今まで我慢していたのか?南海子マネージャーの横に座っていた社長が笑い始めたので、何も解らない連中まで笑い出したので、それを見ていた舞台にいる連中まで笑い出してしまった。私は、指揮棒を持ち始め、K君に指揮棒を向け、次はS君に、最後はH君。すると3人は指揮棒に合わせ、それぞれ「ド・ミ・ソ」と和音を奏でました。K君は、ドの担当、S君はミの担当と言う様に決め、あまった人員をそれぞれ後ろに付け、さあいよいよスタートです。

本番が始まると、始めから笑っていた南海子マネージャーは腹を抱え笑い、最後はむせています。

しかし、残念ながら何をしてそんなに面白いのかは、ここで書ける内容ではないので省略させていただきますが、皆さんが想像するほどおかしな内容ではない事を誓います。次は宴会も終わり、グループに分かれ2次会の出来事に移ります。


2011年11月15日 (火)

キャンプ場

キャンプ場に来てから、4輪チームも無事到着し早速設営に取り掛かりました。

各自手馴れたもので直ぐ終わり、早速晩御飯のおかずを獲る為、一斉に海に入り

好きなポイントに泳いでいきました。

私はゴムボートを漕ぎ、社長の向かうポイント付近まで行き船上で待機です。

社長は水中眼鏡に、シュノーケルとモリを持ち手招きで、もう少し近くまでボートを

寄せるように指示すると潜っていきました。

潜水時間は実際1分位らしいのですが、私の感覚では潜ってから5分から6分に

感じるくらい長く感じます。

大丈夫かな?と心配するくらい潜っていた社長が、やっと水面に出てきて

私の乗っているボートにポィット放り投げてきました。

飛び跳ねている魚を見ると石鯛ではないですか。

「ヤッホー、先ずはこれで酒の肴は確保できた」と喜んでいると、社長は

「少し小さかったかな?」と言い残し再び潜っていきました。

期待して待っていると、今度は蛸を獲ってきました。

蛸は気持ち悪く動いて、私の乗っているゴムボートの中を動き回り、私の

ふくらはぎに乗ってきたので、蛸をつかんで引き離そうとしたら、メリメリという

音がして離れたが、ふくらはぎには吸盤が4個ぐらい残っていた。

私がそんな格闘をしている時でも、社長は順調に獲物をゲットして次々と

ボートの中に放り込んできます。私は、鵜匠になった気分になり、もし私が鵜匠

だったら鵜は今潜っている○△×かな?と、心の中で思い一人ニヤニヤしていると

社長が水面に上がって来て手招きするので、今思っていたことがばれたかな?

と少し焦りながらボートを寄せると、社長はK君とH君を呼ぶようにと言い、

また潜っていきました。近くでサザエを拾っていたK君とH君が来ると、3人は立ち

泳ぎをしながら何か打合せをして一斉に潜っていきました。

何だろうと水面を見ていると、3人がかりで獲物をもって上がってきました。

何と巨大なエイでした。ゴムボートに乗せられると、気持ち悪く怖いから

K君とH君に岸まで泳いで持って行ってもらいました。

キャンプ地に戻ると料理に取り掛かるわけですが、女性軍団はご飯と魚の

味噌汁を作り、エイのバラシは新人の仕事です。

問題の酒の肴は、社長がテキパキと石鯛の刺身を作っているので問題なし。

蛸は塩で揉んでぬめりを取り、刺身と茹蛸にしています。

私はFX400マフラーのテストレポートを書き終え、程よく冷えたビールを取り出し

行儀良く肴を待っていると次々と出てきました。

皆はエイを口にして、鶏肉みたいで美味しいと言いながらパクパク食べています。

私は不気味で、あんな恐ろしいエイを何の根拠も板前経験も無い素人が

さばいた物なんか食べられる訳無いじゃあないですか。

しかし、問題はエイに手を付ける事が出来ない私を見ていたS君は

酔って真っ赤な顔を私に向けて「根性なし」とか「臆病者」とか罵るので

仕方なく口元まで持って行き、食べるふりをして後ろに放り投げました。

S君は酔っているので、食べたふりをして後ろに放り投げている事には

気がつかず「美味しかった?」と聞くので「意外に美味しかった。

鶏肉みたいな感じだね?」と言うと、S君は満足げに缶ビールを口元に

持って行きました。私は積極的にエイの皿に箸を伸ばし、口元まで持っていっては

後ろに放り投げていました。お腹も満たされ、程よく酔った男性達はお決まりの

儀式を始めるのです。一日も早く、先輩に追いつき追い越せと夢を見ている連中と、

先輩としての威厳を示さなければならない集団と二手に分かれ、先ず後輩が

根拠の無い自分勝手な技術論を語り始め、それに先輩が答えると言う図式です。

始めは丁寧に答えているのですが、酔う程に全員入り乱れ口角泡を飛ばし、

時には手が出るのでは?と思うほど熱くなり始め、終焉が近くなると言語明良

意味不明みたいな話になって行くのです。それを見届けた女性達は、宴会の

終わりに近づいた事を察知し、せっせと片付けを始めるのが恒例です。

女性は民宿で泊り、男性はテントで一泊します。

酔っ払った連中は、理想と現実が区別つかない話を好き勝手にしゃべりながら

横になり眠っていきました。私も横になり、今日のツーリングを思い浮かべながら

眠りました。朝騒がしいので目を覚ますと、私の寝ている後ろで昨晩と違い

元気一杯のN君とS君がブツブツ言っていました。目をこすりながら起きると、

「原さん汚ネー、結局エイを食べていなかったじゃーないか?」と言うので

「何を言っているんだ。ちゃんと食べるところを皆も見てたではないか」と言うと

「じゃあこれは何?」と指をさすので、目を向けた先には、エイの唐揚げから

蒲焼までそっくり捨ててあり、何も言い訳できなくなった私は、朝日が昇り始めた

ばかりのまだ肌寒い海に向かって思い切り飛び込みました。

しかしそんなことでは許してもらえる訳も無く、当然朝飯のおかずはエイしか

与えてもらえませんでした。


2011年10月21日 (金)

血が騒ぐ時

忘れた頃に登場いたします。また昔の話になってしまい恐縮です。

今から約30年くらい前の事だったと思います。

1年に一回必ず来る恐怖のイベント、連日徹夜の祭典「鈴鹿8時間耐久レース」が終わった次の週は、疲れきった体を癒しに紀伊長島のキャンプ場に行くのが恒例でした。但し、このキャンプには暗黙のモリワキルールがあります。食料としてキャンプ場に持って行けるのは米と野菜と調味料のみです。釣りとか素潜りとか、自然と向かい合うのが大好きな集団ですから「おかずは自前で」と言うルールが自然に出来上がってしまいました。もし、食料が確保できなかったら酒の肴は無く、食事はご飯と野菜炒めだけという、恐怖感一杯のキャンプなのです。
さあキャンプ当日天気は上々。しかし出発前にやらなければならない仕事がありました。

諸事情から、発売が大幅に遅れているFX400の試作マフラーを作成し、実走テストを兼ね紀伊長島まで走って行くことになっていました。テストライダーは、厳正且つ不正なくじ引きにより選ばれたのは当然私です。不正なくじ引きとは知らず、テストライダーにもれたスタッフは、腐る事も無く真剣な表情で、エンジンベンチデーターを基に作られた図面を片手に、てきぱきと仕事をこなしています。

試作マフラーは自分好みのデザインに仕上がり、すっかり満足している私の姿を見て製作者もホッとした表情でした。大役を終えたスタッフは、キャンプの準備しているチームに合流しキャンプ道具を車に積み込んでいます。

しかし、テストライダーの私は何故か複雑でした。

私がFX400でキャンプ場まで行くと言う事を耳にした社長は、突然私の伴走者として一緒に走ると言い、CB750を出して来たからです。

当時の社長はレースこそ引退していましたが、フレームテストの為、サーキットを時々走っていましたから「社長についていけるだろうか?」と言う不安と、「久しぶりにライダーとして引っ張ってもらえる」と言う喜びが重なりとても複雑な心境でした。

キャンプ道具を積んだ四輪部隊を送り出し、誰もいなくなった工場で走行前チェックを終え、CB750とFX400は紀伊長島を目指し出発しました。23号線を松阪方面に向かい走り出した私は、社長の背中を追いつつFX400マフラーのテスト項目を順調にこなして行きました。

42号線に入る前に停車し、簡単なマフラーのテスト結果を報告しました。

報告を聞いた社長はうなずき、ヘルメットの顎紐を締め再び単車に跨り、一路目的地を目指しました。私は、出発前思っていた「社長についていけないのでは?」と言う不安もなくなり、さらにこんな遅いペースで良いのかな?と言う逆不安になったが、ペースは相変わらずのんびりムードの楽々ツーリングの雰囲気です。42号線に入ると交通量がすっかり少なくなり、ほどよいコーナーが多くとても楽しい道路です。今のペースに若干不満な私は、前を走っているCB750を挑発してみたが全く動じません。諦めて走っているとアラ不思議、徐々にこのペースに馴染んで来て、テストも忘れがちになるほど心身ともにリラックスして、美しい景色を見ながらすっかりツーリングを楽しんでいる自分がいました。

暫らく走っていると、のんびりムードから一変、荷坂峠にさしかかる手前の直線で前を走っていたCB750が、ワンピースマフラー独特の小気味良い排気音を奏でながら加速して行く姿を見て、「私は来た‼」と声を張りあげ、頭の中をレーシングモードにチェンジすると同時に単車のギャを2速落とし、アクセルを思い切り開け、社長の真後ろにつくとコーナーが迫ってきました。

私は大いに血が騒ぎ、突っ込みで思い切りフロントタイヤをCB750の内側にねじ込み、立ち上がりで抜こうと試みました。

しかし、社長は何事も無かったように1速落とすと、そのままアクセルを開けて加速して行きました。社長と私、は連続するコーナーを慎重且つ大胆にオートバイの醍醐味を充分に堪能しながら走りました。

コーナリング時、私の前を走行しているCB750のリヤタイヤを見ると、ズルズル滑らせながら走っているので私もその気になり、少しずつ滑らし悦に入っていると、社長はタイヤを滑らせながら後ろを振り返り、私の心配をしていましたが、私の走りを見てこの走りであれば大丈夫であろうと判断したのか?ますますスピードを上げ、ヘアピンが連続するコーナーを攻めていくので、私も大いに興奮し懸命に走りました。どのくらい走ったのだろうか?平坦な真っ直ぐの道になり、2台の単車は停止しました。ヘルメットを脱ぎ二人とも同時に笑い始めました。

それもそのはず、気がついたら目的地はとっくに通りすぎ尾鷲まで来ていました。

社長と私は、半分以上戻らなければならないが今度は目的地までおとなしく走ると思いきや、再度激しいツーリング?を楽しみながらキャンプ場に到着したが、まだ荷物を積んだ四輪チームは1台も到着していなかった。

今振り返れば、社長も私も30歳前半燃えて当然ですね。


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